それもまた、しあわせな日常
「ねえねえ、かごめ様」
「はなちゃん、かごめ様をひとり占めしないでよ」
「わたしの方が先よ。ね? かごめ様」
「みよちゃんの方こそ、どいてちょうだい」
「はいはい、みんな、喧嘩しないの。仲良くしてね」
「はーい、かごめ様」
微笑ましいと評した方がよいのだろうか。それとも、騒々しいと形容した方がよいのだろうか。暖かな春の日差しの野辺で、今日もまた、かごめ争奪戦とも呼べそうな可愛いらしい諍(いさか)いが繰り広げられていた。
かごめの周囲には、まだ幼い村の子どもたちが幾人も群れていた。かごめが村の外れの草原で薬草摘みをしていると、子どもたちはしばしば近寄って来てはともに草を摘んだ。そして、かごめの薬草籠の一部として一緒に持ち帰って役立ててもらうことで、自分もまた一人前になったような気持ちになり、子どもらは大いに喜んだ。そんな、和やかで実に微笑ましい光景だった。
村長にも頼りにされる村の大巫子楓は、優しく、頼りになる一方で、その偉大さと老成した風格ゆえに、まだ幼ない子らにしてみれば、時に、とっつきにくい存在であった。もちろん、近寄って話しかけすれば、楓が自分の祖母を思わせる存在なのだと直ぐにでも気付くはずではあったが、自分たちの親だけでなく、村長までもが何ごとにつけて敬意を表する存在ゆえに。特に、もう一人の巫子様が誕生した後は、楓の偉大さが際立って目に映った。
その愛弟子であるかごめは、村の大人たちから見れば、まずは、あの奈落の脅威から村を、国を救った一行のひとりとして、また、今まで誰ひとりとして成し得ることができなかった、いつの時代も結局は災厄を引き起こしたどんな願いでも叶えるという霊玉、四魂の玉をこの世から消滅させた偉大な存在として、そして、それを成し遂げたたぐい稀な霊力を今も変わらず有する巫子姫として、そして何よりも村の誇りとして、一目置かれ敬意を払われていた。
もっとも村の巫子としてのかごめは、今はまだ大巫子楓を師と仰ぎ、日々真摯に実務を学ぶ、まだまだ修行を始めたばかりの見習いであり、今のおまえに何ができるのかと問われれば、時に苦笑を浮かべて笑ってごまかしたくなるような新米であった。そんなかごめを村人たちは次代を担う巫子として期待する一方で、何よりもかごめ自身の幸せを願って、温かく見守ってくれていた。
それとは別に、かごめは子どもたちにとても好かれていた。当時の災厄を記憶に持たない小さな子どもたちにしてみれば、かごめはいつも優しく、時にドジを踏み、舌をぺろりと出しては、また元気に修行に励む親しみやすい、大好きな見習い巫子様であった。
「かごめ様、この草はここのとこにいいんでしょ?」
まだ幼い少女が、かごめに向かって一本の花穂を差し出し、自分の喉に手を添えながら自信ありげに尋ねた。
「大当たり、良く分かったわね。さよちゃん。この草の葉っぱもこの花穂についている種も咳止めのお薬にもなるわ」
かごめは楓に教わったことを、子らにも分かりやすく教える。それは、見習いのかごめにとって復習にもなり一石二鳥であった。
「おかあに教わったの」
小さな子にとって、大好きな人に認めてもらう以上の喜びはない。そして、
「そうなんだ。さよちゃんのお母さんは物知りだね。さよちゃんも賢い!」
かごめはにっこりとほほ笑みながら、正解の返答とともに、期待いっぱいのきらきらした目で見上げる少女さよの頭をよく分かったねと撫ぜてやる。さらさらとした黒髪を白い手が優しく滑る。少女は大好きな巫子様に褒められ、満面の笑みを浮かべた。
かごめは、ふと思い立ったように傍らににょきりと伸びていたさよが手にするものと同じ花穂を根元からぷつりと引き抜くと、その茎をふたつに折り曲げ、同じ草を自分に向かって差し出した少女の手を取り、二本を組み合わせた。
「さよちゃん、ちょっとエイヤッ! って引っ張ってみて。勝負よ」
悪戯な目をして、かごめはさよを誘う。
「うーん!」
肩をいからせ、神妙な顔をして、さよはかごめ相手に草相撲に真剣に興じる。一緒にいた子どもらも瞳を輝かせて二人を応援した。
「かごめ様、がんばれー」
「さよちゃん、がんばれー」
かごめも真面目な顔をして、そのくせ、声は楽しげに両の手で茎を支えるようにしてさよを応援する。
「さよちゃん、もう少し。頑張れ。ああ、わたしの方が勝っちゃうかな?」
プツン――。
「ああ、さよちゃんの勝ちだ。さよちゃんってば強いな。わたしの負けだわ」
「わーい、かごめ様に勝ったぁ」
「さよちゃん、すごい。わたしもやりたい」
春の草原は、たくさんの笑顔と賞賛で満ち溢れた。
「みんな、この草はオオバコというの。葉っぱやこの花穂に付いている種を煎じれば咳止めのお薬にもなるし、こうやってお友だちと草相撲で遊ぶこともできるの。素敵でしょ」
遊びと学びが共にあり、誰もが楽しく知識を身につける。そんな何気ない優しさがかごめらしさであった。傍目に見れば、それは託児所のような光景だろう。和気あいあいと、和やかに時が過ぎて行く。
「ねえ、かごめ様、これは?」
今度は別の子がかごめに語りかける。さよよりも少し幼い。
「……」
手にした草をかごめはじっと見つめる。
「ねえ、何に効くの?」
子にとっては、別に、自分が分からなくても構わないのだ。かごめに構ってもらいたいだけなのだ。
「うーん、分かんない。ごめんね。あとで、楓様にきちんと教えてもらうね、はなちゃん」
かごめは申し訳なさそうに答えた。
「かごめ様も、分かんないの?」
小さな子にとって、それは驚きでもあった。
「うん。わたしも知らないことがいっぱいあるわ。だから、楓様やいろんな人に教えてもらって勉強するの。一つ学んで、一つ賢くなって、それで、誰かのために少しでも役に立つようになれればいいなと思っているの。はなちゃんの質問にも自信を持ってすらすらと答えられるように早くなりたいわ。といっても、直ぐには無理だけどね。何といっても、わたしはまだまだ新前の見習いだからね」
胸を拳でぽんと叩き、将来への抱負を語るかごめの姿は、驕りのない謙虚さと実直さに溢れていて、子らの笑顔を誘う。
「頑張ってね、かごめ様」
「ありがとう、みんな。じゃあね、今日はこのオオバコを摘むのを手伝ってくれるかな? これだったら、確実にお薬になるから」
かごめは、今みんなで草相撲に興じたばかりの花穂と緑色の若葉を掲げ、子らを誘う。知らないことを、できないことを、悔やんでも仕方がない。明日、少しでも今日より先を歩んでいる自分を目指して、今できることに真摯に向き合う。焦ったって仕方がない。いつか、いつかの「明日成ろう」の今日でいい。小さな子どもたちに、その姿を見てもらう。それがかごめにできる今の最善だった。
「みんな、たくさん集めてくれてありがとう。助かったわ」
「お役に立てた? かごめ様」
「わたしもお役に立てた? かごめ様」
「ええ、みんな、すっごく頑張ってくれたものね。おかげで籠にいっぱいになって、しばらくは咳止めの材料には困らないわ。でも、みんなは風邪なんか引いちゃ駄目よ。これはいざって時のお薬にするんだからね」
「はーい」
結果としては、仕事量は半人前以前の話だろう。それでも、子らは遊びの中で学び、親たちは安心して仕事に精を出す。
「さあ、みんな、そろそろおうちに帰りなさい。お父さんやお母さんが待っているわ」
「はーい、かごめ様。また、教えてね」
「またね」
片手を上げ、手を振って笑顔で子らを見送る。
かごめはまた本来の自分の仕事に戻る。まだ摘むには季節が早いオナモミ、オトギリソウ、ゲンノショウコに目を細め、今を盛りに可憐な紫の花を付けるカキドウシに手を伸ばした。
「ふふっ、そのうち、これのお世話になるのかな?」
背筋をぴんと伸ばし、薬草摘みに精を出すかごめだった。さわさわと吹き抜けて行く春のそよ風は彼女のおくれ毛を風に緩やかに遊ばせる。時に、スミレやゲンゲに手を伸ばしては、ふわりと浮かべる笑みは手にした花に勝るとも劣らぬ可憐さで、その姿を目に映す者すべてを魅了したことだろう。
「そこの巫子よ、そなたは美しい。わしの元に上がれ」
それは、唐突に、不躾なほど高圧的な物言いで、半ば命令としての響きを内包して発せられた。巫子と限定している以上、それは間違いなくかごめに向かって発せられたものだった。
声をかけた者にとって、それは己にとってごく当たり前の権利であり、声をかけられた者はそれを名誉なこととして受け取るべきものだと思い込んでいた。もちろん、この手の内容で男が声をかける対象は年若く美しい娘であることが多く、時にその娘に恋仲の男がいたり、伴侶がいる場合には、娘にとっては必ずしも幸せなこととは言えなくもあったけれど。それでも、多くの場合、その命(めい)がもたらすだろう贅(ぜい)と今の自分の暮らしを秤にかけたくなる誘惑が、心に過(よ)ぎることも少なくはない一言であった。
「申し訳ありません。わたしはこの村の巫子をさせていただいておりますので、あなた様のお気持ちには添えません。お許しくださいませ」
手の中にある、今、摘んだばかりの薬草を膝の傍らに置いていた籠に収め入れると、かごめは背筋をぴんと伸ばし、声の主に顔を真っ直ぐに向けその目を見据えると、次は深々と頭を下げ、きっぱりとした態度で「否」の答を返した。それは、迷いひとつなく、堂々として、清々しいほどの応答であった。その凛とした姿がまた麗しい。巫子としての威厳と清楚さ。一方で、今まさに蕾が花ほころぶ年頃の可憐さとそこはかと漂う色香をまとう、今を盛りと評したくなる美しさであった。
男として、特に、権力を持つ者にとって、その気高さは、逆に手折ってみたい衝動に駆られるものであった。
「何を申す。巫子など他の者と代わればよいではないか。 わしはこのあたり一帯の庄を治める者ぞ。わしの命に従えぬと言うのか?」
近従の者を従えた男は、己の立場、地位を主張する。ある意味、それは、権力でしか物事を語れないのだということを、近従の者たちは決して口にしない。そして、そのことは、当の本人も付き従う者たちも気づいていない真実であったことだろう。
「……」
かごめは無言のまま、真っ直ぐに男を見つめ返した。それは、ある意味、目の前の男の度量を計るためであり、己の尊厳をかけての対峙であった。
「どうじゃ!」
男は、それを「諾」の答えを返すための考慮の時間と捉えたのだろう。己自身の地位を背景とした自信というよりは、慢心ともいえよう。
もっとも、後にこの時代を指して「戦国時代」と称される時代に、近隣の庄をまとめて支配する家の主として座する以上、全くの無能な男というわけではない。室町の時代よりの荘園を、本来の持ち主に代わって、現地をまとめ上げるだけの力を持った譜代ならではこその自信であった。それは、下剋上という、実力だけが支配する時代の始まりに、人の上に立つ者としての自負であった。
ただ、一方で、男が失念していることもあった。数年前、この地方一帯に起きた災厄は誰によって払われたのか。彼らとて、話として知らぬわけではない。ただ、当時、この地を離れ、京の都へと出向いていたゆえに、彼らは誰もこの地のあの日を実際には知らないことも災いした。そして、えてして起こりうることではあったが、この地にあって実務を取り仕切っていた者たちよりも、共に都へと随伴していた者たちを、その心安さから近従としてより重用してしまう愚行との相乗性を。だからこそ、目の前に佇む一人の巫子が、ただただ、気高く美しい一人の娘としか目に映らなかったのだった。
目の前に座す娘が誰であるのか。それは、この地の近隣に住まう者であれば遠からず知っているはずの常識であった。だからこそ、誰ひとりとして、鄙に咲く名花と陰で称えられるかごめにそのような言葉を投げかけはしなかったのである。彼女がどういう立場の、どういった存在であるか、知るがゆえに。
この地で生きて行くのだとの覚悟を持って暮らし始めてちょうど一年あまり。やっと少しずつ、かごめがこの地に根付き始めたと言って良い今日この頃であった。実のところ、今回のような事態を、かごめは過去に何度か経験したことがあった。もっとも、今までのそれは村を離れていた際の話であり、通称、楓の村と呼ばれるこの村で出くわしたことは、今回が初めてであった。そして、過去に何度かあった同様の事態も、随伴者のおかげもあり、いつも一瞬のうちに解決したのだった。
初めて目にする男とその近従たちに、かごめは心の中でため息をつく。
そういえば、こういうことって、この村の中じゃなかったわね。このお殿様ときたら、わたしが着ているものを見ても分かんないのかな。あ、最初にわたしのことを巫子と分かっていて声をかけたんだっけ。そうなると、単に女好きのお殿様なのかしら。ああん、もう、他所ならまだしも今更この村で、こんなこと言ってくるのは止めてよね。それに、側仕えのあんたたちも、お殿様の権力振りかざしての横暴を許してんじゃないわよ。もっと、こう、ぎゅっと締めて諫めてやってよね。そりゃあ、女の中にも地位やらお金になびく人もいるわよ。でもね、男だったら、逆に、女の方から言い寄られたり、追っかけられるような魅力的な男になってみなさいよ。それができない時点で、あんたは駄目なんだってなんで気付かないんだろう。
決して口には出さないが、かごめは表情を変えずに心の中で景気良く悪態を付いた。
「どうした。返事をせい」
無言という名の「諾」とは対極にある目の前の巫子の表情に、いつまでたっても答えが返されぬ時の間に焦れ、馬上にあった男は、両者の間にあった小川を越え、かごめの近くまで歩を進めた。距離にして、五、六メートル。この時代の単位でいえば、三間(げん)ほどに。男にしてみれば、己の方から歩み寄ってやったのだという思いもあったであろう。一方で、今もって表情一つ変えず、じっと己を見据える目の前の巫子の不遜さに苛立ちを覚え始めていた。
「それでは、正直に申し上げますが、わたしは夫ある身。たとえ、この村の巫子を止めようとあなた様の意には添えません。申し訳ありません」
二メートルあまりの頭上、――六尺を超えた上方を仰ぐようにして、かごめは、改めて、きっぱりと断りの奏上をする。
他に答えなどないのだ。かごめにとって、なぜ今この地にいるのかという、根源的なただ一つの理由でもあった。
「なに? 夫だと? そんな輩、わしが蹴散らしてやろう。わしの方が強いぞ」
ひとりの男としての自負なのか、支配階級の者としての自惚れなのだろうか。それとも、この時代ゆえの価値観なのだろうか。
「夫を愛しております。お引き取り下さいませ」
かごめは、先ほどまでの巫子としての顔ではなく、己の夫ただひとりを愛する貞淑な妻としての女の顔をして嫣然と微笑む。
「ならぬ!」
未だ男を知らぬ生娘ゆえの頑なさではなく、夫を持つゆえに応えられぬと言い放つ目の前の女を、逆に手に入れてみたいとこの男は思ったようであった。それは、ある意味、征服欲を好む支配階級の男の意識そのものだったのかもしれない。
しばらくの間、沈黙を守っていたかごめは、静かに立ち上がった。そして、今度は、きっと敵意を秘めた眼差しでもって、馬上の男と、その周囲を取り囲む男たちをぐるりと見回す。この時、左の手にはかごめ愛用の弓が携えられていた。
それは、はっきりとした、いざとなればとの覚悟さえ示す確固たる拒絶であった。
「ふっ……、仕方がないわねぇ」
かごめはここでいったん言葉を切ると、大きく息を吸い込んだ。
「犬夜叉、ちょっと来てぇ。困ったことが起きたの」
豹変するとはこのことだろうか?
それまで、かごめは目上の者への礼儀を弁えた言葉を選んでいた。それが、巫子としてだけでなく、親しい者たちだけが知る、ひとりのかごめという人間としての言葉遣いへと変わったのだった。そして、かごめにとって、それは、ことを穏便に済ますべく選ぶ最後の一手とも呼べる手段だった。あくまで、かごめにとってであったけれど。
「おぬし、大きな声を張り上げおって、それでこの場がどうにかなると思っておるのか」
目の前の巫子の言葉遣い、態度の変化に驚きつつも、地位ある男は苦笑を浮かべ、こう切り返した。それは、いざとなれば、女の力などたかが知れているとの思いからだったことだろう。それが、この男の器量を下げる第一歩になるとは、知ってか知らず。
「はい。わたしの愛する夫は、わたしが困っていればどこに居たってすっ飛んで来てくれますから」
ここは村外れであり、辺りをぐるりと見回してみても、人一人いない。ましてこの時は、猫の子すら一匹もいなかった。そんな中、通常ではありえぬことを、かごめはにっこりと微笑んで、肯定した。
突然、旋風(つむじかぜ)がその場を吹き抜けたかのように、ざっと土埃が舞い上がると、辺りの視界を覆い隠した。そんな一瞬であった。
「かごめ、どうしたんだ?」
その場に、あるはずのない男の声が頭上より降りかかる。いや、声だけではない。視界が晴れた譜代一行の眼前の至近距離に、あるはずのない男が立っていた。突然現れたというのがぴったりの形容だ。孤立無援だった巫子を悠然とその背で守るかのように。
「なに?」
反射的に、馬上の男は問い返していた。だからと言って、事態を把握できたわけではない。
一番正確に事態を把握してしていたのは、その場にいた、ただ一人の女であるかごめ。それは声の主を、いやこの場に新たに現れた人物を呼び出した当の本人であるゆえに。
「犬夜叉。この人がね、わたしのこと、勝手に奥さんにするって言うのよ。あ、もしかすると、奥さんじゃなくって妾になれかもしれないか。それで、邪魔なあんたを蹴散らすんだって」
かごめにとって、先の宣言は相手を牽制する大言造語の張ったりなどではなく、発すれば叶う魔法の呪文のようなもの。あくまで、呼び出される者がその時、仕事で不在ではなく、村に在住している時限定という条件付きではあったけれど。
もちろん、この日の予定は頭にしっかりとたたき込んであったる。彼が、この日、村に在住していることも、この時、多分に何をしていたのかも、かごめには分かった上での話だった。
「はあ? この馬鹿、何言ってやがんだ」
呪文によって呼ばれし魔人、もとい、かごめの愛する夫は、緊張感の欠片もなく、目の前の支配者を馬鹿呼ばわりした。彼の名誉のために言及するならば、別段、相手を小馬鹿にしたわけでなく、単に口が悪く、何よりも権力に対して無頓着で、意に介す気も、その必要もないだけだった。もっとも、自分から喧嘩を売って、己ではなく、かごめや村が不興を買う羽目になるようなことをあえてすることは決してなかった。
この場においては、先に理不尽な要求をしたのは、目の前の馬鹿に相違ないとの自信あってのことであった。その理由は言うまでもない。かごめの発した呼び出しゆえに。
「お、お、おまえ……」
驚きと恐怖に包まれたのは、馬上の男であった。
そして、別の意味で、まずい事態になったと悟ったのは、男の近従の者たちであった。
「てめえ……、かごめはおれの妻だ。おれの女に手を出そうなんてやつは、許さねえぞ」
犬夜叉の声は、先に、かごめにかけたものとはほど遠く、低く、凄みを帯びていた。彼にとって、目の前にいる男は、犬夜叉が歯牙に懸ける必要さえないほど脆弱な存在ではあったけれど、一方で、一人の男として、己の命よりも大切と言って憚らぬ女に対して口にした、侮辱と言っても良いような言動を許せるものではなかった。何よりも、そのような目線でかごめを見たことこそが、彼にとって許しがたい下卑た行為であった。
一方で、普段から己の妻が自分以外の男に優しく声をかけるだけでも焼きもちを焼くような度し難い惚れっぷりでもあったのだけれど。
「その姿は……。おまえ、妖怪なのか!」
目の前の男の意識は、既に声をかけたはずの女よりも目の前の異形の男に奪われいた。白銀の髪、獣の耳、金の双眸、長く尖った爪、口元から覗く大きな犬歯。それが、己を見据え、睨みつけているのだから。
「悪いかよ、おれは半妖だ」
犬夜叉は、不機嫌そうに、男の問いかけを肯定する。もっとも、彼が不機嫌なのは、己へのことではなく、背中に隠したかごめへと投げかけた言葉ゆえに。
「巫子よ、おぬし、こやつに惑わされたのか?」
苦し紛れに、男はかごめに尋ねる。男にとって、既にかごめを欲しいという気持ちよりは、この場をどうにかしてすり抜けてかわしたいという思い一心からのひとことであった。本当を言えば、このような下卑た言葉などではなく、潔い謝罪でもってその場を引くことこそが、目の前の男にとっても、女にとっても、一番有効な手であったのだが。
対峙する両者の空気はますます険悪なものへと変わっていった。
一触即発。犬夜叉の苛立ちは極限まで張りつめていた。
そんなとき、この場を制したのは、かごめであった。
「ちょっと、お殿様! わたしの夫をそんな風に言わないでよ。妖怪だとか、半妖だとか、人間だとかはわたしたちには全然関係ないわ」
背中で庇う犬夜叉の腕を振り切り、ずいっと前に一歩踏み出すと、馬上の男を指指し、きつい目で、きつい口調で言い放つ。
それは、理不尽なモノへの激昂。時に、半妖である犬夜叉でさえ、口出しどころかぐうの音も出せないほどに激しいものだった。多くの場合、それは自分自身のことではなく、弱き者、愛しい者が不当な立場に置かれることへの憤りであり、彼女の優しさが形を変えた発露でもあった。
それこそが犬夜叉にとって、かごめへの愛しさの始まりだったとも言える。いや、今となっては、かごめという存在そのものが愛しさ以外の何モノでもないけれど。
「かごめ」
犬夜叉は、自分の背中から無謀にも飛び出して、自分のために息を切らせるほど興奮して啖呵を切る妻をその腕の中に再び捉え直すと、湧き上がってくる彼女への愛しさに、その名を呼んだ。
「巫子よ……」
一方の馬上の男は、かごめのその猛々しさに、その毅然さに、その情の深さに、ある意味、見惚れたのかもしれない。
人外の者に惑わされた――目の前にいる二人は、その言葉とは異なる人と人としての絆を感じさせるのだと。
そんな思いで、馬上の男が二人を眺めていると、今度は巫子を抱く半妖が威嚇するように、声を発した。もっとも、言葉の裏に危険な気配などたいして含まれておらず、単に、おまえに引き際を与えてやろうという、男としての大きさでもって。
「いい加減にしねえと、てめえ、ぶっ殺すぞ!」
言葉の選択そのものには、礼儀があるとはとても言えなかったけれど、彼が丁寧な言葉を選ぶ由もない。
「犬夜叉、ストップ。それは言い過ぎ」
半妖の腕の中に囲われた巫子が、夫である半妖に、振り向きざまに馬上の男にとってはよく分からない異国を思わせる言葉を口にする。半妖である男は、小さく、「けっ」と口にした。どうやら、ふてくされているようだった。
「犬夜叉を悪く言わないで! わたしは別にこの人に惑わされたわけじゃないわ。わたしはこの人を、犬夜叉を、誰よりも愛してるだけよ」
今更告げなくとも二人のやり取り、態度でもって、その場にいた者すべてに十分に伝わっている真実を、かごめは晴れやかに、そして誇りを持って言い切った。
「とっとと去りやがれ」
両の腕の戒めを緩め、腕の中のかごめを解き放つと、辺り一帯の支配者である男を前に、犬夜叉は堂々とした態度でもって言い渡す。
己自身の足で大地に立つ。ひとりの男としての誇りと、愛する妻との間にある信頼を胸に。
「……」
馬上の男には、謝罪や、苦笑を湛えて馬首を巡らすほどの余裕はなかったものの、最後の最後で、引き際を捉え損なうほどの愚か者ではなった。
「けっ!」
去り行く一団に、犬夜叉はこの一言で今回の騒動を胸に収めた。それは、ある意味、彼の度量を示すものでもあった。今の犬夜叉にとって、大切なものはそれなりにある。それでも、これだけはと命さえ掛けられると明言できるものは、さほど多くはない。その筆頭がかごめだ。逆を言えば、ただ一つと問われれば、迷うことなく選び取る存在だ。そんな彼女に対して、先の男が何をしたか。いや、何を口にしたか。もちろん、犬夜叉が胸に収められるからには、かごめに実害がなかったからこそではあるけれど。
「まあ、あのお殿様ったら根性ないわねえ」
一方で、のん気なのはかごめの方であった。
「かごめ!」
そんなかごめに、犬夜叉は大きな声を上げた。
己の胸に巣食った心配を、彼女がどれだけ理解しているのか。だからこそ、かごめから目が離せない。だからこそ、かごめを一人にできない。その一方で、かごめをかごめらしく生かしてもやりたい。優しくも雄雄しいかごめが愛しくてたまらない。そして、かごめがそんな風に生きていけるよう、己こそが守ってやりたいとも思うのだった。
「どういうつもりで言っているんだ?」
決してかごめの貞操を疑っているわけではない。それでも、愛する妻が口にした一言に、犬夜叉はむっとした顔をして問いかける。
「あら、だって、犬夜叉が出てきた途端、しっぽ巻いて逃げ帰っちゃったのよ。わたしひとりの時はあんなに高圧的だったのに。だから、根性なしよ。もっとも、誰に何を言われたって、最初っから無駄な要求なんだけどね。だって、わたしには犬夜叉がいるんだから」
かごめのにっこりとした笑みは蕾が花開くように可憐だった。そう、今、この季節に花弁を舞い踊らせる桜のように、優しく、艶やかに、そして軽やかに。
「……そんなこと、言うまでもねえだろが」
花に魅せられた犬夜叉にとって、それ以上の抗弁は適わない。なぜならば、それこそが犬夜叉にとっても真実であったから。
「だからこそでしょ?」
かごめは笑う。
「だがな、もしおれが来なかったらどうなってたと思うんだ」
目の前の可憐な笑みに心奪われている己がいるからこそ、かごめではなく、他の男などまったく信用できないのだ。
「ちゃんと犬夜叉は来てくれたわ」
嬉しそうに、かごめは笑う。
「来るに決まってるだろうが」
犬夜叉には、これしか返す言葉はない。
「犬夜叉を信じてるもん」
かごめは満面の笑みを浮かべた。
互いに互いを愛して止まない。互いに互いを信じているからこそ口にできた軽口だった。喧嘩をしようが、やつあたりをしようが、焼きもちを焼こうが、互いが互いのために生まれてきたと信じられる絆がそこにはあった。
「あ、そうだ。そろそろ時間?」
かごめは傍らに置いた薬草籠と護身用を兼ねた愛用の弓を手にすると、隣りで腕を組む犬夜叉に声をかけた。
「だから、おれが迎えに来たんじゃねえか」
緊急の招へいへの馳せ参じはもちろんのこと、案外、時間に固い男はさらりと答える。
「ありがと、犬夜叉」
これもかごめの美徳の一つであろう。感謝を言葉にして素直に伝える性格は。
「犬夜叉って、本当に優しいよね。そんなところも、だーい好き」
いつものように負ぶさった背中から、かごめが語りかける。
「お、おいっ。何言ってやがんだ」
「やん、犬夜叉ってば照れてるの? あんたが優しいのは本当のことじゃない。本当のことを言われたからって、別に照れなくてもいいのに」
犬夜叉の声には、心の動揺が含まれていた。以前を思えば、真っ直ぐに自分に向けられるかごめの好意に対して少しは免疫もできてはきたが、それでもやはり、かごめが肩越しに垣間見た犬夜叉の頬は、想像に難くなく赤らんでいた。いや、それ以前に彼の耳は先の先まで赤く染め上がっていた。
「けっ!」
まさにそれは、嬉しい気持ちを彼なりに表現した一言だ。
「まーた、そんな風に言うんだがら。褒めてるんだから、もっと素直に受け取りなさいよ」
頬をぷっと膨らませると、かごめは犬夜叉に追い打ちをかける。
「じゃあ、おまえはおれに礼でも言えっていうのかよ」
「うーん、それはちょっとあんたには似合わないわね」
「似合う似合わねえの問題じゃねえだろ」
いつの間にやら争点はずれて行く。
「そうだ。たとえば、『そうか?』なんて感じで、問い返すなんてのはどう?」
「……、嫌だ。なんか女女しい」
元より言葉少なな犬夜叉ではあったが、かごめ相手であれば会話が続く。それがどれほど稀有なことであるのか、かごめは知らない。
「でも」
「でも?」
「犬夜叉ってば、きっと優しい、いいお父さんになると思うよ。弥勒様にだって負けないくらいに」
飛ぶように大地を蹴る犬夜叉の足元が、ぐらりと揺れた。
「きゃっ!」
「ばっきゃろう!」
犬夜叉の首に回されたかごめの腕に、思わずぎゅっと力がこもった。
――何気ない日常は、ただそれだけで彼らにとっての楽園の日々だった。
後日、馬を駆っては領地のあちこちを自らの目で見て回る譜代が、先代よりこの家に仕え、領地で起こった様々なことをよく知る重臣たちより、この地に生まれたばかりの伝説まがいの話を詳しく聞くこととなる。それは、譜代である男が先日出会った美しい巫子と半妖という物珍しい夫婦の謂れ。
彼らこそが、この地ばかりか、この国を救った者たちであったことを。そして、育んだ絆に種を超えて結ばれた二人であることを。
それは、他人(ひと)のモノとするには、やはり惜しい女だったとの譜代である男の思い出とともに。
- 了 -
初出 2009.12.29 (台詞劇)/ 改訂 2010.08.08(脱稿)
吐夢様「巫子 かごめ様」より
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