たったひとつの願い
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その2:分身
風を切るというよりは、風に乗ると表現した方が似つかわしいのかもしれない。鳥は音もなくふわり、するりと空を滑空する。その背に主(あるじ)を乗せて。周囲は切り立ったごつごつとした険しい山の峰が幾重にも連なり、深山と呼ぶには樹木の一本すら生えてはいない。通う鳥も一羽きり。「荒れ果てた心象風景とは」と問いかけられたならば、目の前に広がる景色だと口にするのがふさわしいかもしれない。そこは、まさしくそんな場所であった。
夢幻の白夜は切り立った崖に穿たれた洞窟にすとんと降り立った。ここまで騎乗してきたものは、蒼白い光をほのかに発する大きな鳥。ただし、生きた鳥ではない。白夜は鳥に視線を向けると、無言のまますいっと手を伸ばした。大きな鳥はきらきらと光を撒き散らしながら小さくなると、白夜の手の平の上でことんと事切れるように倒れた。薄蒼く燐光を放っているかのような透ける紙で丁寧に折ったような折り鶴を彼は己の着物の袖へとしまった。
――まだ見つめてるのか、飽きないねえ。
そこには、白夜がこの洞窟から飛び立つ前に見た時と寸分違わぬ景色があった。同じ姿勢のままで彼はそこにいた。彼の目の前には殺生丸の連れである少女が昏々と眠っていたが、それには気にもとめず白夜に背を向けたままで既に半日ほども手にした四魂の玉を眺めていたらしい。
「奈落…」
「……」
白夜が声をかけるものの、奈落はそれに応えない。
白夜にしてみれば、長きにわたって望んだものが手に入ったのならば、とっとと使えば、そう、願いでもかければいいのにと思う。四魂の玉を巡って、奈落がどれほどの労力、気力を傾けてきたかを知っている。そのために、自分もどれほど関わせられたことだろう。いや、そのために自分は生み出された。
「奈落、玉を使ってなにをするつもりだい?」
無言で佇む奈落に白夜は問いかけた。
「この玉から抜け出した曲霊が、再び入る込むスキもないほどに、玉はこの奈落の穢れに満ちている」
奈落はそこで言葉を切った。
思わぬ答えがあった。視線を白夜に向けることはなく、四魂の玉に固定したままではあったが。一心に玉を見つめそれ以外には何一つ反応することもなかった奈落の意識が、ほんの少しとはいえ四魂の玉から外に向けられたのだった。
――やっと、答えが見つかったか。
白夜は奈落にもう一度同じ問いを重ねた。
「で、奈落、あんたその玉を使ってなにをするつもりだい?」
「なにをする…か」
うっすらと暗い笑みを浮かべた奈落が、白夜の問いかけを反芻するかのように繰り返す。
しばし目を閉じると奈落は瞑想するかのように沈黙した。
どれほどの時が流れただろう。奈落の口からふっと溜息のような小さな吐息が漏れた。
「なにもない」
と、奈落はぽつりと呟く。
「なにもないって、それこそなんなんだ? 今までこき使われてきた俺の立つ瀬がないじゃないか」
首をすくめるようにして、白夜は返す。そのくせ、その言葉には驚きも怒りも何もなかった。それは、心のどこかで納得するような答えでもあった。
奈落にも強くなりたいという願いはあっただろう。その一方で、「この世を支配する」などという征服欲はまったくというほどにない。犬夜叉たちが玉をめぐる闘いのうちに成長したのと同様に、奈落も四魂の玉を求める日々に身につけた妖力によって、その気にさえなれば、願いさえあれば、玉などなくとも当の昔に成し遂げていたかもしれない。たとえ、それを阻止しようと対峙する者たちがあったとしても。
白夜は何よりも奈落の間近にいた――いや、それ以前に奈落の分身としてこの世に生まれたゆえに、奈落の想いの一端は語られるまでもなく知っていた。そう、それは分身ゆえの共有。
夢幻の白夜――己が作り出す夢幻によってひとの心を操る。幸せにも絶望にも思うがままの夢を紡ぎ出す。それゆえに、ひとの心の奥底を覗きこむ術を持つ。ましてや奈落は白夜の本体。その心は決して同じではないものの同じ虚無の夢を紡ぐ。奈落と白夜の絆、それは白夜そのものともいえた。
「じゃあさ、聞き直すけどさ。あんた、なにが欲しかったのさ。それくらいは分かるだろ?」
「……」
「何かがしたくて俺や他の分身を作ったはずだ。今だって、心に浮かぶモノくらいあるはずだ」
白夜にとって、奈落は己の命でもあった。もっとも、白夜は奈落に己の命を握られていることを別段忌避するつもりはない。そのように生まれついていた。名が示す通りなのかもしれないと白夜は思う。
しょせん、己も夢まぼろし。奈落が見ているひとときの幻に過ぎないと思っていたのかもしれない。
白夜が知る奈落の分身は多くはない。
自我の欠片さえなく、すべてを受け入れそのすべてをその身に映し出す鏡のように、奈落の命(めい)をことごとく受け入れ抵抗することもなく逝った神無。ただ生きたいと、生への渇望こそが願いのすべてだと、己ひとりでは這うことすらままならぬ赤子がいた。動けぬ赤子の手足、その鎧である魍魎丸や、白童子がいた。他にも幾人かいたらしい。
そして、俺。奈落は俺になにを望んだのだろう。
白夜は生まれた以上、生まれた意味が知りたいと思うだけであった。自分の心は自分では分からない。奈落にだってきっと分かっていないだろう。
「桔梗……」
奈落はつぶやいた。
「あん?」
「鬼蜘蛛は桔梗を欲していた」
そこで、言葉はいったん途切れた。
「わしの中にあった鬼蜘蛛は桔梗を欲して、自分のものにしたいと願っていた」
「……」
「だが、わしはあれとは違う。わしは桔梗を殺したのだ」
静かに、それでいてきっぱりと奈落は語る。
「そうだったな。あんたは桔梗を殺した」
「わしは桔梗が目障りだった。あの目を、あの目を向ける桔梗がわしは憎くて仕方がなかった」
「確かに、あいつはあんたのことっていうか、鬼蜘蛛を憎んでいたよな」
「……」
「じゃあさ、邪魔者がいなくなったあんたは、なにがしたいんだ?」
「……わからん」
結局、答えは振り出しに戻る。
「これからどうするつもりだ」
白夜にしてみれば、呆れたくもなる。傍から見ていれば、奈落が何に心囚われているかは丸見えなのに、当の本人はからっきし気付いてはいない。
「まだ、犬夜叉たちがいる。やつらが怒り、わしを憎むほどに、わしはその怒りや憎しみを喰い変化を繰り返したてきた。そして、この手の中にある四魂の玉は穢れ切って完成した。わしが桔梗を殺したように、この闘いの行きつく先に何があるのか。やつらの憎悪の果てに何があるか……」
答えは見えない。それでも、奈落が今できることは何かと問われれば、それしか頭に浮かばない。
「別にいいんじゃないか」
白夜は奈落に視線を絡めることなく答える。
「どういう意味だ」
奈落は知った風な口を利く白夜に苛立ちを覚えた。どこかに、たかが分身と小馬鹿したくもあったのかもしれない。
「それでいいってこと。案外自分の心ってのは、自分では分からないものさ。それが知りたいってのでも、いいんじゃないか?」
奈落の問いかけに視線を戻した白夜は、かすかに口の端に笑みを浮かべると、そう返した。桔梗への執着、その正体が何であるのかを奈落は気付かない。それをこれから見つければ良い。
「……」
「で、奈落。あんたは俺に何を望むんだ?」
真顔に戻った白夜は奈落に問い質す。
「犬夜叉に絶望を」
にやりと愉快そうに、それでいてくらく笑いながら、奈落は語る。
「おいおい、しがない一介の分身ごときにそりゃあないだろ? そいつはあんたの仕事だろうが」
おや、元気が出たじゃないか。あんたはそうでなくちゃいけない。あんたには策謀を練っているのが良く似合う。それが良いことだとか悪いことだとかは、白夜にとってどうでも良かった。奈落に望まれること――それが白夜にとって、生きる意味なのかもしれない。
「では、おまえの夢幻刀で」
「こいつで?」
「そうだ。かごめを斬れ」
「で、なにで斬るんだい?」
「犬夜叉の冥道残月破だ」
「ふーん。……なるほどね」
「悪くはなかろう?」
「そうだな。あんた、やっぱり悪(わる)だねえ」
日は西に傾き、夕闇が迫っていた。辺りはどんよりと血のように赤い。
奈落は、漆黒に染まった手のひらの四魂の玉をじっと見据えていた。
――光は死んだ。
闇が迫る。
ゴオオオオオォ……。
世界は邪悪な闇に包まれようとしていた。
- 続く -
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初出 2008.05.08
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