柘榴(ざくろ)
「こほん」
と、咳で始まった今年の夏の風邪。ここ数年、季節の変わり目に時折床に就くことも普通のこととなっていた。己の年を数えるまでもなく寄る年波に敵うはずもないと、それなりに自覚もあった。
わしが巫女となったあの日から既に五十有余年が過ぎ、顔には皺が深く刻まれ、髪も白くなった。わしにはこの村の先代の巫女であった姉ほどの霊力はない。それでも妹ゆえか多少の霊力に恵まれ、今際(いまわ)の際(きわ)の姉の言葉もあり、わしは村の者たちに望まれ姉の跡を継ぐこととなった。
姉に遠く及ばぬ部分を少しでも補おうと、わしなりに努力もした。たぐいまれな霊力だけでなく、治療師・呪術師としての知識や施術の技量も人並み外れるほどに習得していた姉という指標は、小娘だったわしが追うには遥か遠く、時に辛く、一方で同じ血を持つゆえにいつか努力は報われる、いつの日にか姉に近づけると勇気にもなった。
そして今、己が歩んで来た道を振り返って眺めてみれば、姉に近づこうとしながら、結局異なる道を来たように思う。残念と思う気持ちもないわけではなかったが、後悔があるわけでもない。姉の年をはるかに超えてこの年まで生きて来たからこそ、素直にそうと思えるのだ。
何よりも、わしと姉とでは根本的なところで抱えているもの自体が異なっていた。姉は村の巫女であるだけでなく霊玉、四魂の玉を守る巫女であり、わしは決して玉を守る巫女ではありえなかった。十八という若さで逝った姉の孤独と悲哀は四魂の玉の存在あればこそと、今ならば推し量ることもできる。ただ、数奇な運命に翻弄された者の苦しみは、同じく翻弄された者以外には、理解も共感も本当のところできないものなのかもしれない。
カナカナカナと夏の終わりを告げる蝉時雨が降る中、治りかけこそ大事を取れとの言葉にひとり静かに庵で臥し、所在なくつらつらととりとめもなくもの想いに耽っていると、戸口の簾を上げて粗末な庵を訪れる者があった。わしの身を案じて見舞いに訪れる者も少なくはない。わしような老婆にはそれがとても嬉しい。
「楓ばあちゃん、起きてる?」
洗いざらしの白衣と緋袴が少しだけその身に馴染み始めたわしの後継の巫女が枕元に腰を下ろし、静かに声をかけてきた。
「かごめか、おぬしには無理をさせたな。済まなかったの。おぬしひとりではまだ少し難しかっただろうに」
「そんなことないよ……と胸を張って笑って言えると本当はいいんだけどね。わたしひとりではまだ無理でした。わたしは半人前どころか本当にまだ何もできない初心者もいいところだから、それを盾にしてできないところはまわりのみんなに素直に甘えちゃったわ。楓ばあちゃんはあれを全部一人でやってたんでしょ。本当にすごいわ。尊敬しちゃう。だから、早く元気になってまた教えてね」
肩をひょいと上げ、ぺろりと舌を覗かせて苦笑しながらも、それでもつつがなく晩夏の暑気送りの神事が無事に済んだことをかごめは報告した。そして、にっこりとした柔らかい笑みとともにわしを頼りにしていると言ってくれる。
かごめを見ていると、自分が幼かった頃を思い出す。姉が何の苦もなくやっていたと思えることでも、わしにはできないことがたくさんあった。そして、今のかごめと同じで、村のみんなの助けを借りて頑張ったものだった。
「一応、一通りは楓ばあちゃんに教えてもらったはずなのに、本番になったら頭の中が真っ白になっちゃったのよね。で、あっちこっちみんなに助け船を出してもらっちゃった。きっとみんなも、危なっかしいなあ、こんなひよっ子ではどうにも心配だから、ぜひとも早く楓様に全快して復帰してもらわねばと苦笑しているに違いないわ。本当に不甲斐ない弟子でごめんね。でも、これからも投げ出したりしないで頑張るから宜しくご指導願います。こんなわたしでも誰かに必要とされるって嬉しいことだもん。ここでのわたしはりんちゃんどころか、村の小さな子どもでもできることさえできないことも多いのよね。それはまあ、ぼちぼちとなんだけど……」
かごめの素直さが心地良い。できることはがむしゃらに、できないことは精いっぱい努力もする一方で素直に助けてほしいと周囲に手を差し伸ばす。思い返せば、年端もいかぬ頃のわしももちろん努力はしたが、至らぬ分は村のみんなに甘えもした。そして、村の者たちは姉との差に苦笑しつつも見守ってもくれた。そういう意味では、わしもかごめと同じであった。
「楓ばあちゃん。わたしは楓ばあちゃんみたいな素晴らしいお師匠様がいてくれて、すっごく幸せよ」
かごめは年老いて徐々に自由が利かなくなる身に嬉しい言葉をかけてくれる。村のみんなも大切にしてくれる。
「のう、かごめ。わしも年をとった。わしはいつまでおまえたちと一緒にいられるのだろうかね」
今日の日までの感謝と満足感。そして、今暫しの生を願って問いかける。
「何言ってるの! 不肖の弟子を不肖のままで放り出しちゃう気? それでは不肖の弟子としてはすっごく困るから早く元気になって下さいね、か・え・で・様」
頬を膨らませ、怒気と驚きとを表にしながら、一方で、すがるような目をしてかごめは言葉を返す。そして、その言葉の裏にはまっすぐにわしの身を案じる優しさが込めてあった。老いさらばえたこの身をまだまだ必要だと言ってくれることは、人として何物にも代えられぬ賛辞だと素直に思う。
「おや。こんな時ばかり、わしは“楓様”なのかね?」
だからこそ、わしもこう切り返す。
「そう。わたしにとって楓ばあちゃんはここでの大切なたったひとりのわたしのおばあちゃんで、その一方でどこの誰より敬愛する、いつかはこんな風になりたいと願う最高の巫女様なの。わたしにはとても“楓様”のような何でもできて頼りになる立派な巫女様にはなれそうもないけど、わたしの遠い遠い目標なの」
かごめはたぐい稀な霊力をその身に秘めている。一方で、その力の使い方もまだよく分かっていない。そして、村の呪術師、治療師としての知識と技もまだまだ未熟と評する以前の修行を始めたばかり。それと同時に、かごめは愛する者との地に足をつけた営みもその手に抱きしめるのだと、誰も成し得たことのない大きな目標を、まっすぐに前を見つめて宣言したあの日のままにそこにいた。
何もかもひとりで背負い込み若くして逝った姉は、稀代の巫女の称号と共に伝説となって今も語り継がれている。わしは凡夫なりに多少は村の者たちに頼りにされる村の巫女として今もこうしてここにある。
目の前の次代の巫女は、また新しい道を進むのだと朗らかに頑張っている。
ひとは皆違うのだ。
誰もがただ一人の存在で、その者にとっては息をするかのごとく造作もなく簡単にできることもあれば、努力して頑張ればできることもある。その一方で、どう頑張ってみてもできないことも確かにある。ひとりではどうにもならないことは、他の誰かに託すとか、手を携えて共に助け合うということで道も拓ける。ひとによって、できることは違うのだから。
それはこの五十年という時の流れの中でわしが悟ったことともいえる。姉は姉であり、わしはわし。目の前にいる姉の生まれ変わりでもあるかごめは、わしとも姉とも違う。かごめはかごめの道を歩むのだ。
「はい、楓ばあちゃん」
わしをゆっくりと起き上がらせると、かごめは以前わしが教えた病み上がりの病人への処方であるカタクリと膠飴(こうい)を湯で溶いたものと、この日偶然手に入れたというこの季節ならではの滋養に長けた蓮の実をほぐして差し出した。
「おぬし、きちんと覚えておったの」
「そりゃあ、楓様の教えが良いもの。不肖の弟子でも少しずつ覚えるの。で、楓ばあちゃんは他には何か欲しいものはある?」
「では、温かい茶をもらおうか」
「はい。お茶はカキの葉のものでいい? 確か、あれって風邪に良かったよね。細かいことは忘れちゃったけど」
「当たりじゃ。あれは咳止めになる」
「そうだそうだ、咳止めだ。あ、それからあとで体も拭いてあげるね。さっぱりするから」
師として、弟子の成長が心から嬉しい。そして、疑似とはいえど孫娘としての心遣いもまた嬉しい。
鉄瓶で煎れた茶をとぽとぽとぽと小振りの椀に注(つ)ぎ入れると、ふわりと爽やかな香りが庵に立ち込めた。想いが篭めらた茶の香りが心に安らぎを呼び入れる。
優しい時が流れる。
欲を言えばいくらだって欲はある。いや、今この時でさえ欲は生まれる。かつて、姉のような霊力があればとどれほど願ったことだろう。もっと、もっとと願えば尽きることのない欲の飢えに苛まれる。一方で、怠惰を決め込めばそこで歩みは止まってしまう。
今というこの一時は、わしが歩んできた道の上にある。
再び、簾がふぁさりと揺れた。
「楓ばばあ、少しは元気になったか? まだくたばるんじゃねえぞ」
相変わらずの憎まれ口に苦笑が漏れるものの、その挙動には病人を気遣っての心遣いがさり気なく込められていた。それは簾の上げ下ろしの静かさであり、かける声の大きさであり、調子であった。そして、手には熟した実がたわわについた柘榴(ざくろ)の一枝があった。これもこの見舞客の心でもあった。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま。ここにいたのか」
「出迎えできなくて、ごめんなさい」
「そんなことは気にすんな」
かごめとの数日ぶりの再会に嬉しそうな笑みを浮かべつつ、一方でこの場にわしが同席していることを残念と無自覚にも思っているのか、多少の落胆を顔ににじませながらも件の客は帰還の挨拶をした。この男の鋭敏な鼻をもってすれば、ここに誰がいるか分からぬはずもない。それ以前に、ここは端からわしが住まう庵であり、わしを見舞う声掛けをしてこの家を訪れたのだった。
「これ、楓ばばあに食わせてやれ。初物だ」
半妖である見舞客は、今の彼の生業(なりわい)となった妖怪退治を終えての手土産の一つを己の妻に託した。
「おばあちゃん、今、食べる?」
ずっしりと重い土産を受け取ると、かごめはわしに尋ねる。
「そうだの、せっかく犬夜叉が持って来てくれたものだしな」
「別に無理に食わなくてもいいぞ。ただ、弥勒のやつが弱った体には滋養になると言ってやがったから食えれば食った方がいいらしい」
人を思いやることもその身に自然に備わった一つの徳性でありながら、それを言葉で伝えるにはつい構えてしまい、相も変わらず照れてしまう男が、わしの身を案じて不器用なりに懸命に勧める。思わず、笑いが喜びとともに込み上げてくる。
「おまえたちも一緒にどうだ?」
「……」
「ありがと、さっそく洗ってくるわね」
季節にほんの少し早い赤い宝玉のような実を口に放り込むと、爽やかな甘味と酸味、その瑞々しさが舌を喜ばせ喉を潤おわせる。それはまさに天の恵みであった。
「弥勒のやつはまずは家に戻って、あとでこっちにも顔を出すとさ」
一緒に出かけた相棒の様子を報告しながら、果実からまとめてほぐし取った手のひらいっぱいの赤く透明な果肉を一気に口に放り込む。それは、いかにもこの男らしい所作である。
「当然よね」
一方のかごめは、その同じ果肉を一つ二つとその手にとっては口に運ぶ。その楚々とした仕草がまた彼女らしい。ただ、かごめにとって柘榴は初めて口にする果実であった。そして、口に入れて初めて、果肉の大半を占めるその大きな種の処遇をどうしようかときょろきょろすることとなった。
「……」
そんな折、空の椀を無言でずいっと差し出したのは、相変わらず口が不器用な男、犬夜叉。もっともこの時彼が口を開かなかったのは、口いっぱいに種を頬張った彼なりの礼儀でもあった。
「あ、ありがと」
口の中にある種を気にしながらも、かごめは礼を言う。そして、礼を言われた当の本人は豪快に口から種を弾き飛ばした。
「ちょっと! 小屋の中で何すんのよ。人にはちゃんと器を渡しといて、自分は吐き出すなんて、行儀が悪いし、それ以前に床も汚れるじゃない!」
「めんどくせぇ、別にこれくらいいいじゃねえか」
一応、彼なりの心配りで種の大半は囲炉裏の灰の上に点々と転がっていた。
「はい、あんたも片づける」
「げっ……」
余計にできた仕事を前に、いつの間にか子を躾ける親のごとく、調教師宜しく、かごめは今手渡されたばかりの小鉢を床を汚した張本人に突き返した。
「で、ふたりとも怪我とかしなかった?」
かごめは床に散らばった赤い実の種を拾い集めながら、さり気なくここ数日の仕事の様子を尋ねる。
「するかよ。見りゃあ分かるだろ。首尾通りだ」
こちらも床を這いながら、遠くに散った己の不始末を丁寧に集めながら答える。
「良かった。二人とも怪我してないって聞いて安心したわ。それから、片付けるの手伝ってくれてありがとう」
満面の笑みを浮かべるかごめであった。
「おぅ……」
不承不承のはずの作業が、いつの間にやら礼を言われる仕事へと変わっていた。
「くっ、くっ、くっ……けほっ」
床から二人の思わず笑いが込み上げ、咳が出る。
「楓ばあちゃん、大丈夫?」
「ばばあ、何がおかしい。ひとのこと笑ってるから咳がぶり返すんだ。静かに寝てろ」
「いや、最初からきちんと器に片付けておれば、おまえもやらぬで良い仕事であったと思ってな」
「……けっ!」
この男も変わった。
誰もひとりで生きることなどできはしない。いや、幸せに生きることはできはしない。心触れる者と手を携えて生きることは何ごとにも勝る。向き合う相手が誰であれ、何であれ、自分以外の何かと幸せを分かち合うために人は生きる。
「そろそろわたしたちも失礼するね。お鍋にお粥を準備しておいたから、夕食の時、りんちゃんに温めて直してもらってね。それから、何か必要があったらいつでもいいからりんちゃんか七宝ちゃんをうちに寄こしてね」
「ありがとうよ」
「遠慮なんかすんじゃねえぞ。おめえもいい年なんだから、とにかく無理だけはすんじゃねえ」
優しい気遣いを当然のことと二人は口にする。その心が何よりも嬉しい。
「そうだな、わしもおまえたちの子を取り上げるまではまだまだ長生きもせにゃならん。そのためにもおまえたちの邪魔をせぬよう、早う良くなるとしよう」
願いを込めて、わしは二人に向かってからかいの言葉をかける。
「くっそばばあ!!」
「おばあちゃん!」
間髪入れず、二人の声が重なるようにして返事が戻ってくる。まことにもって仲が良い。
「ほんとに、ばばあともなると巫女のくせして明け透けで堪ったもんじゃねえぜ……」
意味するところをきちんと捉え、顔を真っ赤にしつつも、それを否定するわけでもない。
「じゃあね」
「静かに寝てやがれ」
「犬夜叉、憎まれ口を叩くんじゃないの」
「ありがとうよ」
二人の心遣いに感謝を込めてこの言葉を送る。
「ねえ、今夜は何が食べたい?」
「別になんでもいい。それより……」
数日ぶりの二人の会話はとても朗らかで、和やかに、楽しげに声が遠ざかって行く。
わしはひとりの女子(おなご)としてこの世に生まれたものの、女子としてこの世に何一つ残せはしなかった。わしはひとりの女子としての幸せを得るよりも、巫女であることを何よりも願ったのだ。ただ一人の肉親であった姉を近く近く感じるために、それがこの世にただ一人残されたわしの心の虚(うろ)を埋めるための、生き抜くための、ただ一つの術でもあったゆえに。
そんなわしを大切な祖母と呼ぶ娘がここにいる。その娘はわしを師匠とも呼ぶ。血の絆ではなく想いの絆がわしらを結ぶ。
しわがれた両の手に抱かえきれぬほどの優しい想いを抱きしめ、わしは今を生きる。
そして、これこそが、わしがこの手に得た掛け替えのない宝。
- 了 -
初出 2009.09.15 / 改訂 2009.09.29
星野雫様「心遣い」より
あとがき (click開閉)