祝いの品 〜Long Vr.〜
――カタッ。
建てられて、まだ日も浅い小奇麗な小屋の戸を引き開けたのは、たっぷりとした袂(たもと)をたくし上げた緋色の衣を身にまとう一人の少年。いや、少年と呼ぶには、その瞳が湛えるものは少なからず大人びていた。
既に陽は落ち、そろそろ夕闇が迫り始めた赤くにじむ西の空を目を細めて眺めながら、じきに訪れる夜を感じさせる涼やかな風に長い髪を泳がせ、彼は呟いた。
「そろそろ、あいつも帰って来るよな」
彼は任せるに足る友人とともに村から少し離れた山まで薬草摘みに出かけた待ち人を、今か今かと待ちわびていた。
それは、彼にしては珍しい話。普段であれば、待たせるのは彼の方。そうでなければ、同行を常としてした。
もちろん、待ち人も決して迷子になるような子どもではない。いつも尊敬の念を抱くほど心強いとも、頼もしいとも思う。ただ、彼から見れば、決して人を傷つけることのできない優しさと無鉄砲とも呼べる正義感ゆえに危なっかしさを覚えるのであった。
遠くから、待ち人たちの声が聞こえてくる。
「今日は付き合ってくれてありがとう。そうじゃなかったら、きっと行かせてくれなかったわ」
「そうだね。あいつは、これでもかってくらい心配症だからね。まあ、それくらい、あいつはかごめちゃんにべた惚れなわけだけどさ」
「そ、そう?」
「そう。言うまでもないことじゃない」
「珊瑚ちゃんだって大切にされてるじゃない」
「そう見える?」
「うん」
「だけど、相も変わらず他所の女にも優しい言葉を掛けるんだ」
「……まあ、弥勒様は、弥勒様だから。でも、あれは法師としての弥勒様だから」
「まあね」
「分かってるじゃない。ご馳走様」
二人それぞれが、想う相手を無自覚にものろける。些細なぼやきも、想う相手に想われ、己自身もその相手に惚れ切っている証拠のようなもの。恋路に恵まれぬ第三者が耳にすれば、石の一つ、いや、二つも三つも、涙を浮かべて悔し紛れに投げつけてやりたい衝動に駆られそうなほどである。
「珊瑚ちゃん、今日はありがとう。ここで」
「最後まで送っていかなくて、いいの?」
「うん。ここまで来れば、もう大丈夫だから」
「こっちこそ、今日はありがとう。またね、かごめちゃん」
「じゃあ」
ここまで来れば心配もないと、村の入口の辻で互いに手を振り合い別れの挨拶を交わす。
鳥たちがねぐらへ帰るように、それぞれの家路を急ぐ。
「くしゅっ」
鼻がむず痒くなって、くしゃみが出る。
噂で鼻がむずむずするというのは本当だと、今しがた噂の種になったばかりの少年は信じたかもしれない。
「あいつら、言いたい放題言いやがって。もっとも、ぜってい違うとは言えねえけどよ…」
常人では拾えるはずのない噂話に、顔を赤らめ耳をぴくぴくとさせる。
「覚悟しとけよ」
少年は赤い残光に目を細め、口の端をくいっと持ち上げ、不敵な笑みを浮かべた。
――待ち人、帰還。
「ただいま。犬夜叉!」
戸口に立つ少年を視界に収めると、その待ち人は、軽く手を挙げ笑顔で少年――犬夜叉に向って駆けて来る。
「おうっ」
短く言葉を返す。
ふんわりとした笑顔に、先ほどまでの決意に満ちた不敵な笑みはどこへやら。
「珊瑚ちゃんが一緒だったから、安心して薬草を摘めたわ。それに、久しぶりに珊瑚ちゃんとたくさん話ができて、すっごく楽しかった」
「良かったな」
満面の笑みを向ける少女が眩しくて、犬夜叉の口の端にも微かに笑みが浮かぶ。
かつて、仏頂面をトレードマークと称され、少しはにっこりと笑えないものかと、苦笑まじりに溜息をつかれることが懐かしくもある。
「うん。珊瑚ちゃんにお願いしてくれて、ありがとう。でも、犬夜叉たちの方が帰りは早かったのね」
「ああ。それにしても遅くなったな。まあ、あいつがついてりゃ、まず、でえじょうぶだけどよ」
「うん、そうだね。ところで、そっちの首尾はどうだったの? 二人とも大事なかった?」
「あるわけ、ねえだろ」
もちろん、かごめが犬夜叉を信用していないわけではない。犬夜叉も信用されていないと思っているわけではない。ただ、言葉通りに素直に優しさを受け取ることが、まだまだ不慣れであるだけである。
「良かった。犬夜叉も弥勒様も強いから信用してるけど、犬夜叉ってば、直ぐ無茶するじゃない。私は犬夜叉にも怪我一つして欲しくないもん。無事に帰って来てくれて嬉しい」
にこやかな笑みを浮かべて、下から犬夜叉の顔を見上げるかごめの顔は、とても優しい。そして、見惚れるほど綺麗だと、犬夜叉は思う。
「あ、…ありがとよ」
天女の微笑みに陥落。傍で見ていた者なら、きっとそう形容するであろう。
――俺は、やっぱりこいつの笑顔に弱いと、犬夜叉は痛感する。
先ほどの決意が鈍りそうだ。
腕に提げたかごからいくつかの薬草を並べ、かごめは今日の成果を報告する。
「いっぱい摘めたでしょ。でも、見分けが付かないものも、まだまだあるんだよね。これとこれとか、犬夜叉は分かる?」
「……」
「明日は楓ばあちゃんのところに行って、今日採った薬草を教えてもらって、それから…」
まだまだ巫女見習い修行中ともいえるかごめは、村の老巫女、楓からいろいろと教わっている真っ最中であった。
ほんのわずかな間に、夜の帳(とばり)が降りてくる。
見上げる空には、煌めく星が、一つ、また一つと増えていく。
「おい、まずは中に入ろうぜ。外はそろそろ暗くなってきたからよ」
「うん」
――かたっ、ことん。
戸口の隙間より漏れた火影が揺れる。
“小さな”と、形容することがまことに似つかわしい小屋の中央にある囲炉裏では、既に鉄瓶が火に掛けられ、注ぎ口からは、白い湯気が立ち上る。その日、小屋の中は優しい甘さを伴った懐かしい匂いがいっぱいに立ち込めていた。
かごめは大きく息を吸い込むと、何だかとても優しい気持ちになった。
かつて、帰宅したかごめを優しく迎え入れてくれたのは、ママ。
「お帰りなさい」という言葉と一緒に、一杯の温かい飲み物を笑顔で差し出してくれた。時にココア、時にミルク、その時々でカップの中身はいろいろであったけれど、いつの時も心に優しさと温もりを届けてくれた。
そして、今。家を守り、迎え入れるのはかごめであった。
かまどや囲炉裏で日々の食事を作ることは、慣れぬ作業とはいえ、普段はかごめの役割。
この日は、久しぶりに迎え入れられた温かさに、妙に心がうきうきとする。
「まずは、温まれよ」
犬夜叉が差し出してくれたのは蓬(ヨモギ)のお茶。爽やかな香りと温もりを運んでくる。
「ありがとう」
かごめは湯飲みを受取り、笑顔で礼を言う。
手の中にある現実の温もりが嬉しい。こくんと一口飲んでみる。
「おいしい…」
お茶を煎れてくれた犬夜叉の温かな心遣いが、身体中に広がるような幸せな気分になる。
かごめが優しい気分に浸っていると、犬夜叉が呼びかけた。
「かごめ、こっち来いよ」
「うん。何?」
「おまえに俺からの祝いをやろうと思ってさ」
犬夜叉は、かごめを見下ろすかのような視線で目を細め、
口許には妙に怪しさを感じさせる笑みを浮べ、誘うように手招きして、こう言った。
「はあ? どうしちゃったのよ。今日のあんた」
つい、訝(いぶか)しげな目でじっと犬夜叉の顔を見つめてしまうかごめ。
「忘れちまったのか?」
「えっ」
「今日はおまえの誕生日だろ」
「……」
「今日はかごめが生まれた日を祝う記念の日なんだろ? 確か、あっちじゃ“初誕生”以外も毎年その日を祝ってたよな。生まれた日とか、何かを始めた日とかを特別なものとして大切にするんだったよな」
かごめは、小屋の片隅に置かれた文机の上のカレンダーに、ちらりと目をやる。
「うん。そうだったね。確かに今日は私の誕生日だわ。でも、あっちとこっちだと暦が違うから、つい日にちがいつだか分からなくなっちゃうけど」
照れくさそうにかごめは笑う。本当は、決して忘れてなどいない。今と五百年* 先の未来とを繋ぐ大切な絆の一つだから。
けれど、かごめはそれを自分からは口にしなかった。
それは、遥か未来の時を生きていたかごめだけが心に覚える記念日という感覚。この世に生を受けた以上、誰にもある生誕の日。それを記念する一年一度の記念の日。
けれど、戦国の世では暦も異なる。月日は月の満ち欠けに支配され、同じ月が二度ある年もある。振り仰ぐ空が、毎年同じ日に同じ星を運ぶ五百年先の未来。同じ日に同じ月を運ぶ今。
そして、遥かな昔を忘却の彼方に置き去りにして来た、誰よりも大切な人が目の前にいるから。
「犬夜叉…」
「どうした?」
「嬉しい」
「そっか、嬉しいか」
「だけど、犬夜叉の誕生日はいつだか分からないもの。私だけお祝いしてもらっても、私はあんたのお祝いをしてあげらないじゃない」
「気にするな」
「だって…」
「俺さ、一生懸命がんばっているかごめの特別な日を祝ってやりたいと思った」
「いいの? 私だけお祝いしてもらって…」
「ああ。俺はおまえが生まれて来てくれて嬉しい。そして、おまえと出会えて嬉しいんだ」
かごめに笑みが浮かぶ。犬夜叉の眼差しは更に柔和な優しさを帯びる。
「うん。ありがとう。犬夜叉の気持ちが私も嬉しい」
二人は優しい気持ちに包まれる。
ふと、かごめが何かに気付いたかのように、こう言った。
「あ、今日は本当に特別な日だわ」
「何がだ?」
「私にとっても、あんたにとっても、私たち二人にとっても」
かごめが語る、犬夜叉自身にとっても特別な日という意味が、犬夜叉には分からなかった。
「おまえだけじゃなくってか?」
「そう。私の十五の誕生日に、私は初めて犬夜叉に出会ったの。そして、あの日は、あんたにとっては封印から目覚めた日よ」
「そっか。おまえだけの大切な日じゃないんだな。俺にとっても、俺たちにとっても、特別な日だったんだな。今日は」
新しい発見に犬夜叉は心が温かくなる。かごめに出会って、自分はいくつ幸せを手にしただろうと、心から思う。
「うん。私も犬夜叉に出会えて嬉しい。犬夜叉が目覚めてくれて嬉しい。犬夜叉の封印を解くことができて嬉しい。そして今、ここに一緒に犬夜叉といられて、何よりも私は幸せなの」
「俺もだ。かごめ、俺の気持ちを貰ってくれるか?」
「ええ」
犬夜叉の手のひらは、すっぽりと腕の中に収まってしまう小さなかごめの背なの柔らかな温もりを覚える。かごめの手のひらは、腕を回し切れない背なの広さと、しなやかな張りと温かさを覚える。そして、互いの唇は、柔らかく、しっとりとした弾力のある熱を覚えた。
暫しの間、時は止まる。
――しゅるり。
犬夜叉は、赤い上衣の肩口にかけた帯紐を解く。
「来いよ」
「うん」
真っ直ぐに覗き込む金の瞳を前にして、かごめは素直に問い掛ける。
「犬夜叉、これって…」
「かごめ、手に取ってみろよ」
「いいの?」
「ああ」
伸ばした指の先に触れる温もりとしっとりとした艶に、かごめはそれをそっと掌中に収めると、思ったよりもずっしりとした重量感を覚えた。おもむろに口に運んで含む。軽く歯を立て、舌先で転がしてみる。
少し塩気の混ざった仄かな甘さとその舌触りに、かごめは酔いしれる。
「はふっ」
「どうだ?」
犬夜叉は、頬を上気させ、上目遣いでかごめに問い掛ける。
かごめは口の中いっぱいに溢れたものをごくんと飲み込むと、感想を口にする。
「おいしい」
「そうか、おまえの口に合ったんだな」
「犬夜叉、すごくおいしい」
「気にいったのか?」
「うん」
満面の笑みで、かごめは犬夜叉の首に手を回して抱きつく。
犬夜叉はかごめの背中に再び腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返す。
「初めてのことだからちょっと心配だったけど、おまえが喜んでくれて嬉しいぜ」
不器用で照れ屋な犬夜叉ではあるが、今では、かごめ相手には素直に思いを語るようになった。
「あのさ、俺もおまえから祝いを貰っていいか?」
犬夜叉はかごめの耳元で、そっと囁く。
「えっ?」
「俺が初めておまえに出会ったのも、今日なんだろ? 俺が封印から目覚めて新たに生き始めたのも、今日なんだろ」
「そうね。あんたの二度目の誕生日ともいえるわね」
「出会い記念でもいいぞ」
犬夜叉は、嬉しそうに瞳を煌めかせる。
「でも、私は何も準備なんてしてないわよ」
「いや、祝いの品なら目の前にある」
「はぁ?」
犬夜叉は、金色に光る目を細め、口の端をくいっと持ち上げ、不敵な笑みを浮かべる。
「さっきの赤飯の礼も合わせて、おまえからの祝いを存分に貰うから」
「えっ?」
かごめは、その時既に口を塞がれ、「応」も「否」も返す事はできはしなかった。
――しゅるり。
犬夜叉は、今度は赤い衣の胸紐を解いた。
「覚悟しな」
「なあ、かごめ」
「…なあに? 犬夜叉」
「俺たち二人の出会い記念の祝いは、今から二人で作るか?」
「……もう、馬…鹿!」
- 了-
初出 2006.05.20./改訂 2006.10.04
丁字屋髷麿様「赤半の妖(あやかし)」より
あとがき (click開閉)