お節介にもほどがある 〜 犬の大将と息子 其の弐〜
それは、犬夜叉がやっとのことで奈落の手からかごめを取り戻し、今度こそ永遠に失われたかと思われた琥珀の命が奇跡とも呼べる僥倖によって繋がれた日のこと。犬夜叉がかごめを井戸の向こうへと送り出した、その直後だった。
犬夜叉は、殺気ではないけれど強大な妖気、それでいてどこかおぼろな気配に振り返った。そこには今は亡きはずの人物がやけに楽しげに笑っていた。
「犬夜叉、元気でやっておるか?」
「……おやじ! また化けて出てきたのか。今度は何用なんだ」
一瞬緊張して身構えた犬夜叉は、その姿に肩の力を抜いた。
そう、目の前に現れた人物は、犬夜叉にとって命の危険――警戒心を必要としない存在であった。
犬夜叉には生前の父の記憶はない。お館様、犬の大将と皆から尊称され、あの殺生丸までもが「父上」と敬意を持って意識するそのひとは、犬夜叉にとって、母や冥加が語って聞かせてくれた人伝(ひとづて)の記憶でしかなかった。それでも、限りなく器の大きな偉大な人物だったのだと、そんな父の血を受けている自分を誇らしくも思ったものだった。
かつて、同じ大妖の父の血を引く殺生丸と犬夜叉の異母兄弟が、二人の間に深く刻まれ、決して消えることはないだろうと思われた溝を埋めるきっかけたとなった叢雲牙をめぐって繰り広げられたあの一大騒動。その時、彼らは亡き父と奇跡の邂逅を果たした。
父は偉大であった。その一方で、一癖も二癖もある御老体、あの刀々斎との友情を深めていた人物でもある。刀々斎や冥加の話なども含めて徐々にその人となりを知るに至って、尊敬という一語では済ませられない父のつかみどころの難しさに犬夜叉も気付いた。いろいろな意味で、懐が深いと。――そう、言葉をうまく選べば……であった。
「口の悪い奴だ」
少しばかり口をへの字に曲げ、胸の前で腕を組んだ目の前の父は、ふんと鼻を鳴らして悪態をつく。
「けっ。苦労させられたからな」
返す犬夜叉の返答もやけにそっけない。確かに、半妖としての出生、生い立ちは苦労の連続であった。かつては、そんな半端な存在として生み出した父を呪いもした。今となっては、過去の話ではあるけれど。
「うおっほん! 今一度、成長したそなたらに問い正してみたくてな」
目の前の父は、犬夜叉の皮肉など気にも留めず喜々として切り出した。乗り越えた葛藤は過去のもの。今更、振り返ってみても意味はないと言わんばかりに。
「何をだ?」
犬夜叉は身構える。それは、獅子や虎に限らず、犬や猫、野性をその身に宿す者が本能的に感じる警戒心からだった。決して目の前の人物は自分に害を与える存在ではない。それは分かっていた。けれど、つい、身構えてしまう何かを目の前の人物は隠し持っていた。
「おまえに守るべきものはあるか?」
闘牙はその目に、その口許に宿していた笑みを落とし真顔となると、犬夜叉の目を真っ直ぐに見つめて問いかけた。
「また、それかよ。俺にだってそれくらいあるに決まってるだろうが」
なぜ、こんな口を利いてしまうのだろう。
「おまえは、あいつと違って素直だな。可愛い奴め」
破顔一笑。父の言動はやけに砕けていた。もう一人の息子と接する際の言葉遣いとは明らかに異なる。
子ども扱いされることに抵抗があるのだろうか。犬夜叉は見た目には十五歳ほどである。気を許した者には見かけ通りの態度も取る。けれど、父の前では自然と背伸びもしたくというもの。
十五歳――この時代であれば、大人として生きることをかろうじて許される境界線であった。時にまだまだ子どもじみた一面を有す一方で、大人としての節制をその身に備えると目され、そろそろひとりの男として立つことを認められる年頃。その一方で、半妖として長い年月を生きてきた日々に基づく、時を超越した者ならではの老成したものの捉え方、生き様も犬夜叉は同時に有していた。だからこそ、同じ時間軸に属する目の前の人物の己への評価に苛立ちを覚える。
「……」
おやじ、それって俺をガキとして扱っているってことか? 俺が苛っていることにもっと気付きやがれ。もっと空気を読めと、心の奥底でひとりごちる犬夜叉であった。
「改めて、おまえが惚れたお嬢さんを紹介してもらいたいものだ」
先ほどの真顔はすでに遠い昔のような顔をして、闘牙は楽しそうに末の息子に催促をする。末といっても、彼の子は目の前の犬夜叉とその異母兄の二人きりであったけれど。犬の大将、お館様と呼ばれる身としては、愛した女性の数も、子も少ない。
「……」
犬夜叉はじっと闘牙を睨みつけるばかりで言葉を返さない。
「おや、もしかしてまだ片思いなんて情けない話ではないだろうな。いや張ったりとか」
沈黙を守る息子の口を開かせようと、闘牙は言葉巧みに策を弄する。
「馬鹿にすんな! ちゃんと……いる」
人心を掴むことにも長けた父である。犬夜叉の沈黙の抵抗はあっさりと切り崩された。
「では、なんと言って告白したのかね」
「……命がけで守る…でぃ」
既に闘牙の言葉は、好奇心ゆえのもの。根が素直な犬夜叉は、闘牙の手の平でこれでもかと転がされることとなった。
「情けない奴め」
「な、なんだと!」
「惚れた女に、『おまえが好きだ』とか、『おまえを愛している』ときちんと言えぬのか」
竹を割ったように清々しい偉丈夫の名を欲しいままにした父である。犬夜叉のこの繊細さは歯がゆくもある。
「ちゃんと伝えたぞ、桔梗には」
「そのお嬢さんはどうした?」
「この間…」
「押し倒したのか?」
闘牙にとっての愛情は、まさしく男と女の情愛を指す。それは愛する者に想いを伝え、互いに身も心も求め合って絆を繋ぐこと。既に二百年も昔に没した男の頭の中身は案外古い。妖怪にして、その愛読書は『源氏物語絵巻』であったとしてもおかしくはない。少なくとも枯れた翁、兼好法師の『徒然草』が座右の銘ということだけはあり得ない。何といっても惚れた女のために命を散らせた男である。
「違う。あいつとは死に別れたんだ」
しばしの沈黙ののちに、犬夜叉はぽつりとつぶやいた。桔梗が最期に見せた笑顔が忘れられない。今も彼女を思い浮かべれば、愛しさに胸が締め付けられる。そんな想いを抱きしめるように。
「どうせ何もしておらぬのだろう?」
「そんなことねえ、口付けも交わした。夫婦になろうって約束も。でも、あいつは…」
さり気なく挟まれる問いに疑問を抱くこともなく、犬夜叉は答える。
心は繋がっていた。想いは伝えられた。最期の最後ではあったけれど、真っ直ぐに。
「そうか。やらずじまいか」
「なぜ、そんな下世話なことを」
「だからこそ、おまえも殺生丸もいるのではないか」
「……」
犬夜叉は、桔梗との切なくも儚く終わった想い出を何か土足で踏みにじられたような錯覚を覚えた。これさえなければ、これさえ知らなければ、……何度心に言い聞かせたことだろう。
「それに、おまえ。それでは求愛の言葉『命がけで守る』にはならぬではないか」
卒のない、抜け目のない父であった。息子の語る言葉に疑問を投げかける。
「あのな、『命がけで守る』って言ったのは、かごめにだ」
犬夜叉にとって、もうひとりの少女の名を告げる。桔梗とは、また違った意味で命をかけても惜しくはない大切な存在。心にその名を、その笑顔を想い浮かべるだけで、温かな光に包まれたような幸せを覚える。そんな唯一無二のかけがえのない存在だった。犬夜叉の目に柔らかな笑みが浮かぶ。
「おまえ、見かけによらぬな。二股ができる奴だったのか、侮れん。それで、そちらのお嬢さんの方は押し倒したのかね?」
どこまで本気なのだろうか。手で触れることさえもったいないと思う存在に、愛欲の衝動、男としての欲望の現実を突き付ける父。
「またそれか」
殴って済むものならば、それで全てをお終いにしたい衝動に駆られる。ある意味、異母兄の純化された想いの方が理解できると言いたくもなる。
「そちらのお嬢さんとも何もしておらぬのか」
「おやじ、俺は親父と違ってけじめをきちんとつけてだな…」
「情けない奴め」
闘牙はふっと溜息を突く。
「惚れた女をなぜ直ぐに口説かん。なぜとっとと押し倒さん! そして惚れた女にはとことん命を賭ける。それが男というものぞ」
腰に手を置き、もう片方の手を拳に握り、高らかに持論を語る闘牙であった。そして、その矜持のままに彼は生き、逝った。
人には人の愛し方がある。
何が正しくて、何が間違っているわけではない。
愛しいと、想いを注ぐ相手が受け止めてくれる想いは、どんな形であっても、その当事者にとって正しい。
犬夜叉の父が注いだ想いは、犬夜叉の母にとって正しいものだったのだろう。
幸せな笑みを浮かべて逝った桔梗にとっても、犬夜叉が注いだ想いは正しかったのだろう。
不器用ながら、犬夜叉が育てているかごめへの想いは、どうなのだろう。
まだ、答えは見つかってはいない。
けれど、二人は手を繋いで前を向いて歩む。
きっと、きっと、幸せな未来を掴むことだろう。
誰も間違ってはいないのだ。
愛の形は数え切れない星の数ほどにあるものだ。
「おやじ、あんたってそういう人だったのか」
「そうだ」
屈託なく豪快に笑う。
あの繊細な母は、この大らかな強い輝きに惹かれもしたのだろう。
犬夜叉が煌めくような、それでいて温かな光に惹かれたように。
「そういえば、おやじって女で死ぬ羽目になったんだよな。よく分かったよ」
父も、異種族の母のために命をかけた。
そして、二人の間に自分が宿った。
それは、己が望まれてこの世に生み出されたのだと、胸が締め付けられるような幸福感をもたらしてくれる。
「おお、分かってくれたか。では早速…かごめさんとやらを押し倒して来い。全てはそこからだ」
父のどこまで本気か分からぬ催促はまだまだ続く。
「いや、俺は俺のやり方でゆっくりと幸せになるから…」
犬夜叉はきっぱりと答える。迷いはない。
幸せになれ。
命を賭けても惜しくない愛しい者をけっして手放すな。
己の半身と巡り逢った俺への、父からの祝福が伝わってくる。
父の本当の想いが言外の言葉として、心に響く。
「は〜っ、おまえはいったい誰に似たのだろう」
それでも、闘牙が口にする言葉はなぜか軽い。
「おやじ、あんたに似てないことはよく分かった」
素直でない息子の、父への精一杯の愛情表現である。
「いや、惚れっぽいところなんかそっくりだぞ。まさしく俺の息子だ」
不器用な息子の言葉裏に、にこやかに微笑む犬の大将こと、闘牙王。いつしか尊称である王を付けて呼ばれるようになった偉大なる大妖は、その身に秘める力だけはなく、その魂の大きさこそが皆の敬意を集めた。
「とっとと、帰れ!!!」
目と口の端に笑み、言葉には険、そして殺気の欠片もなく、すらりと手にした愛刀鉄砕牙。
「連れない奴だな。本当に男は可愛げがない」
闘牙は目と口に大らかな笑みを宿し、心と裏腹の追い立てをする息子の言葉に肩をすくめる。
そして、去り際に一言こう言い置いた。
「あ…、犬夜叉」
「なんでぃ、まだいたのか」
「孫には女子(おなご)を希望しておくぞ」
「おやじ。冥道残月破でお袋のところに叩き返してやろうか」
顔を真っ赤にして、父から託された分身を大きく振りかぶった犬夜叉であった。
人の恋路に口を挟む馬鹿野郎、
馬に蹴られて、なんとやら……。
「久しぶりにこの世に戻ってきたというに、妾(わらわ)のところには寄らず仕舞いとは。分かっておいでだろうな、闘牙殿…」
遠く離れた西の空。
今回、訪問を受けずじまいのやんごとなき美丈夫の瞳がきらりと光ったと、侍従の記録にこそりと記されたと、風に乗ってあの世まで伝わったとか。
- 了 -
初出 2007.10.23/ 改訂 2008.05.06
雑記帳「サンデー感想第526話『戻らない霊力』その2」追記のおまけより
父上ってば、下の息子さんの所にも来訪…。
ますますはた迷惑…。
苦情はぜひともなしの方向で宜しくお願いいたします。
ちなみに、父上様のはた迷惑なちょっかいは、兄である殺生丸のところにも⇒♥
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お気に召されましたらと言うよりは、笑って頂けましたら「ぽちっ♥」と頂けると嬉しいです。