想い出は美しい 〜 犬の大将と息子 其の壱〜
どんな時、どんな場合であってさえも、常に心は冷静であり醒めていること。決して己を見失いはしないこと。それは、殺生丸がたぐいまれな完全なる大妖怪であることの証(あかし)でもあった。その一方で、いまだ殺生丸が生ある者として、己以外に大切なものを持たぬことへの哀しい真実でもあった。
殺生丸は何らかの力によってりんが囚われ連れ去られたと知るや、その報をもたらした者たちへの礼はおろか、ひとことの言(げん)さえ残すことなく、一気に空の高みへと駆け上がった。
――曲霊(まがつひ)がりんを連れて行く先は奈落…。
目的はただ一つ…。
この殺生丸の刀を封じること。
「おやおや、そんな偉そうな御託など並べておらず、愛しい娘を胸に心赴くままに翔ければよいものを。まだまだ、あいつは己を分かっておらぬ」
杯を片手に、目を細めて嬉しげに笑う者があった。その笑みは豪胆にして、快活。
「まあ、あなた。何か良いことがあらせられましたでしょうか」
差し出す杯が再びなみなみと充たされた。
「ああ」
柔らかな笑みを湛えた相手に、朗らかに返事を返す。
「よろしゅうございました」
「ふふふ、嬉しいものぞ。あれにもやっとその日が訪れたということか。それにしても、その相手というものが……実に! はっ、はっ、は」
己の半身に巡り逢う。
それは、生きとし生ける者の何よりもの喜び。
誰もが、それがために生れしもの。
無限とも思えるその命、それは限りある命に勝るとは限らない。
たとえ短い命であったとしても、それが悲しいものとは限らない。
「わしは幸せ者ぞ」
「私もでございます」
これは、殺生丸が曲霊(まがつひ)に囚われたりんを追い、空を駆けた後の話。
それがいつの話であったかは、当事者以外誰も知る由もないほんのひとときのこと。
「父上、今頃になって何をまた迷い出ておいでになられた」
殺生丸は、目の前の己によく似た色彩、よく似た造作、己よりも剛毅な気質の対峙者に問う。
「今一度、成長したそなたらに問い正してみたくてな」
殺生丸に“父”と呼ばれた男は屈託なく笑った。
「……」
殺生丸は沈黙を守っていた。あるはずがない者が目の前にある。そんな不思議よりも、己に向けられる視線に応えることが奇妙に感じられた。確かに、それは殺生丸が知る父であり、一方で奇異な印象を受けるほど、記憶にあまりない父であった。
殺生丸にとって、父は限りなく偉大であり、豪胆であり、そして大らかであった。憧れて止まぬその大きさ、己にはない資質に、嫉妬さえ覚えた。だからこそ、たかが人間一人のために命を落とした父が許せなくもあった。
一方で、殺生丸が知る父のほがらかさは、多分に己以外の者に向けられていたと記憶している。そして、殺生丸自身が直接知る父は、案外言葉少なで、己を真っ直ぐに見つめてではなく、背を向けて語っていた印象が強い。
かつては――。
「おまえに守るべきものはあるか?」
朗らかに父が息子に向かって問う。
「父上、またそれですか」
殺生丸には、問いかける父の意図がすとんと胸に落ちてきて、苛立ちさえ覚えた。
「大切なことだ。おまえに残した私の最期の言葉だったではないか」
口の端ににやりとした笑みを浮かべ、言外できっちりと答えよと要求する。
「ふっ。……ここにおいでになられたということは、父上には言わずとも分かっておいででしょう」
「いや、おまえの口から改めて聞きたいのだ。おまえが心惹かれた女性(にょしょう)の名を」
にこやかに笑みを浮かべる父に、殺生丸は答えぬ己が矮小に思えてくる。
「……りん」
殺生丸は目の前の父を真っ直ぐに見返し、静かに息を吐き出すと、ぽつりと、それでいてはっきりとその名を告げる。それは、勇気を奮っての告白にも似ていた。
「殺生丸。声が小さい。聞こえぬぞ」
間髪入れず、眼前の父は切り返しす。
「父上! “りん”と申したでしょう」
少しばかりの険(けん)を視線に含ませ、殺生丸は先ほどよりも少し低い声で静かに返す。耳の良い一族である。聞こえぬはずはないのだ。
「そうか、りんと申すのか。なかなか良い響きの名だ」
ふむふむと嬉しそうに顎に手をやりながらうなずく。
「わざとらしいことを……」
気恥ずかしさと、それでいて発した言葉への覚悟を込めて、ぎりりと視線を絡ませる。
その時、父がぽつりとつぶやく。
「それにしても、おまえに幼女趣味があるとは思わなかったぞ」
その瞳にはいたずらめいた光が宿っていた。ただひたすらに己の力のみを頼む殺生丸が、誰かのためにと、己以外の誰かを心に棲ませるようになったことが何より嬉しく、愛しかった。頑な息子にどう接して良いか分からぬ遠い昔を思い起こし、彼らしい冗談がふいに口を突いて出た。
「父上、あなたがそう仰るのですか?」
険を少しばかりの怒りに変えて、殺生丸は父に問いかける。殺生丸にとって、りんの年はたいした問題ではなく、真っ直ぐでのびやかな健やかさこそが愛しかったゆえに。
「うん? 十六夜は子を産める大人の女だぞ。おまえが懸想した相手と一緒にするな」
冗談を冗談として笑い飛ばせる父のその大らかさは、時に神経質な殺生丸の地雷となった。それを今この時、父はすっかりと忘れていた。
「父上、私はあれの心根が気に入ったのです。懸想などと……」
きりりと胸が痛む。些細な言葉選びの戯れに苛立ちを覚える。
「まだ手を出していないと言い訳するか。幼女に惚れたには違いなかろうが」
頑なな息子と初めての恋談義に浮かれていたといっても過言ではなかった。そして、その先に待っていたものは、――“墓穴”。
「父上、私は存じ上げております。確か、あの女性(にょしょう)――犬夜叉の母親と父上が出会われた頃はまだ裳着(もぎ)の前だったはず」
「……」
一瞬にして、形勢は逆転した。
「それにしても、父上のご趣味は分かりませぬ」
「何を言うか! 十六夜は可愛いおなごぞ」
「いえ、そちらではなく」
「……」
誰を指しているかは言うまでもなく。
「まあ、父上があの女性を求められたわけも分からぬでもありませんが」
殺生丸は、それが己にとっての何に当たるかを知っていればこそのひとことであったのだろうか。
「殺生丸、あれはあれで退屈せぬ良い女だぞ!」
「……物好きですな」
「……」
「否定なさらぬのですね」
「そっくりだな。おまえ」
目の前の息子に、己が妻を見い出していた。「のう、闘牙殿」と、対峙すればその緊張感さえもが愛しい彼の誇り高い女の眼差しを。
「父上、とっととあの世にお帰り下さい」
いつの間にこんな風に思うようになったのだろう。父が間近に感じる。生前の父は己にとってこれほどまでに軽やかであったろうか。そして、こうして父と言葉を交わす己自身も。
「まだ来たばかりじゃないか。つれない奴だな。薄情者め」
にこやかに笑いながら、それでいて息子に向かって駄々をこねるように反論する。
「それでは、犬夜叉の方にでも行ってください! 私はあなたのお相手をしていられるほど暇ではありません。それとも、久しぶりに母上のところにでも行かれるか」
「……」
思わず絶句したくなる闘牙王であった。
息子に疎まれ、それに苦言する己が妙に楽しくもある父であった。
目の前で堂々と「大切な者がいる」と口にする息子を前に、その成長を促したりんと、もう一人の我が子、それに連なる人々に感謝の念が膨れ上がる。
かつて、どう対処したものかと心傷めた愛し子が、しなやかに生きるその世界が眩しい。
「殺生丸、見つけたな」
素直に笑みがこぼれる。
「父上」
静かに見送る殺生丸の瞳には、父にはまだまだ及ばぬとの自覚と、ふと、記憶の中の父はあのようなひととなりであっただろうかとの疑問が湧いた。
想い出は美しい。
いったいそれは、誰の言葉であっただろう。
- 了 -
初出 2007.10.22/ 改訂 2008.05.03
雑記帳「サンデー感想 第526話『戻らない霊力開放』」追記のおまけより
ちなみに、父上様のはた迷惑なちょっかいは、弟である犬夜叉のところにも⇒♥
馬鹿父、暴走中…。
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