溺(おぼれる)
よくも飽きねえものだと思う。
朝も早くに起き出して夜伏して眠りに付くまで、毎日判で押したように同じ軌跡を辿るあいつの一日。
朝のおまえは、晴れていれば朝日に向かって手を合わせ、雨が降れば笠(かさ)と蓑(みの)を身にまとい空を振り仰ぐ。そして、おまえは住まう庵を離れ、小さな村の周囲をぐるりと巡る。女だてらに大きな石を動かし、倒れた杭を引き起こし、封の呪(じゅ)を唱える。それは邪を寄せ付けぬための目に見えぬ聖なる結界。
だから、俺はおまえの村には入れない。
昼のおまえは、晴れていれば野で草を摘む。白い花、青い花、花を付けぬ数々の草も。髪に挿す花ではなく、誰かのために煎じるべくその手いっぱいに野の花を摘む。雨が降れば、おまえはあの小さな庵の中。俺には……分からない。
夕のおまえは、朝に変わらず。
そして、夜分。戸口から垣間見える囲炉裏火に照らされた影が二つ揺れる。ひとつはおまえ、もうひとつは、おまえ以外を目に映さぬまだ幼い小娘。あの小娘は俺を見るなり、いつもきっと睨みつける。
「けっ」
人間なんてそんなものさ。弱いくせして自分と異なる者には容赦がない。おまえだって、同じだろう?
なあ、飽きねえのか?
おまえ、何が面白くてそんな暮らしをしているんだ?
四魂の玉をとっとと手放して俺によこしな。
そうすりゃ、おまえは気楽になって俺も妖怪になれて、どちらも万々歳だ。
よくもおまえは飽きねえものだと思う。
来る日も来る日も、朝も早くに起き出して夜伏して眠りに付くまで、毎日判で押したように同じ軌跡を辿る。
おまえは晴れても雨が降っても、毎日村の周囲をぐるりと巡り呪(じゅ)を唱えて回る。それは、邪を寄せ付けぬための目に見えぬ聖なる結界。
だから、俺はおまえの村には入れない。
――バシュッ、ビィーーン!!
すっくと立ち上がると、流れるような動作で構えた弓に矢を番(つが)え、ゆったりと弓を打ち起こし、狙いを俺に定め、一瞬の間を置くとおまえは矢を放つ。
そして、俺の顔の直ぐ隣の楠の木の幹に容赦なく矢は突き立った。
「矢がもったいない。いい加減に四魂の玉は諦めろ」
「けっ、知ったことか。次こそおまえから取ってやる」
半妖の俺がたかが人間のおまえになぜ遅れをとるのだろう。わけは分からない。ただ、矢が放たれるまで、俺は一連のおまえの動きをじっと眺めていた。俺も物好きなんだろう。
「おまえ、名はなんという?」
不意に、おまえは俺に声をかけてきた。
「……」
俺は返事など返す気はない。
「おまえには名などないのか? それともおまえには言葉が解(かい)せぬのか? 半妖」
まっすぐに俺を見つめて問いかける。
「けっ!俺に、人間ごときに名を名乗れってか?」
「おや、言葉を解したか」
「馬鹿にすんな! てめえ、さっきも俺はしゃべったろうが」
妙に調子が狂う。人間の女ごときに手玉にとられているような気分になる。
「私の名は桔梗だ」
「それくれぃ知ってらぁ」
「おまえ、“半妖”と呼ばれる方が好きか? それとも、おまえ自身を示す“名”で呼ばれる方が好きか?」
「……」
「私はどちらでもいいぞ」
「……犬夜叉」
「そうか、おまえは犬夜叉というのか。なかなか良い“名”だ」
「けっ!」
以来、桔梗は俺を“名”で、――『犬夜叉』と呼ぶようになった。
おふくろが死んで以来、俺の名を口にする者は、半妖と蔑む兄の殺生丸と、冥加だけ。そして、桔梗が増えた。
八十八夜も過ぎたころ、初夏の爽やかな風が白い花を舞い散らせる。
いつもの草原で、いつものように薬草を摘む桔梗が目に映る。ぴくりとも動かぬおまえの表情。桔梗、仏頂面ばかりで飽きねえものか?
目を細め、手をかざして空を振り仰ぐ桔梗。眩しいほどの強い日差しが世界を白く輝かがやせ、そして、光がくっきりとした日影を形づくる。俺は光が作り出すその明暗をじっと見ていた。
吹き抜けていく風が、長く真っ直ぐな、射干玉(ぬばたま)もかくやと形容したくなる桔梗の髪をさわりと舞い上がらせる。
俺は、揺れる髪を目で追っていた。
白い野薔薇が風に舞う。時折、桔梗の肌に触れる。
思わず、俺は目を逸らした。
降り注ぐ陽の光が、桔梗の顔に翳りを落とす。
なぜか、胸がちくりと痛む。
風が髪をさらうたび、花びらが桔梗の唇に触れるたび、俺は無性に腹立たしくなった。
おまえの顔を見るたびに、なぜか心の臓が苦しくなる。
何なんだ、この変な気分。心がざわりと苛立ってしかたがない。
単の袖が滑る。――さらり。肌を滑り落ちていく衣(きぬ)が音曲を奏でたような気がした。
袖に隠れていた二の腕が、付け根近くまで顕になる。
「……」
ごくりと、唾を飲み込む音が妙に大きく感じた。
「たしなみのねえ女だ。女なら、ちっとは袖口を押さえるとかすればいいのによ」
誰が聞いているわけでもないのに、ぽそりとつぶやく。
それでも、白く滑(なめ)らかな、柔らかい曲線を描く桔梗の腕に、男である自分の浅く日に焼けた無骨な腕との違いを感じて目を離せないでいた。
きっと、目の前にある四魂の玉がいまだに手にできないせいだ。
――たかが、人間の女ごとき。
確かに、桔梗には人並み外れた類まれな霊力がある。勘も良い。それは認める。
それでも、たかが人間。それも、たかが女に過ぎない桔梗。
なぜ、俺は玉を奪えないのだろう?
この爪で引き裂くことくらい、とても簡単なこと。
なぜ、俺は玉を奪はないのだろう?
俺の速さであれば矢を避けて近づくことなど造作もないはずだ。
なぜ? と、俺は答えの出ない問いを今日も己に投げかける。
「……考えるのは性に合わねえ」
俺は、四魂の玉が欲しいのだ。
すっくと立ち上がると、眼下の桔梗を見つめた。
――バシュッ、ビィーーン!!
「桔梗!」
「犬夜叉、本当におまえはしょうがない奴だ。毎度、言っているだろう? 矢がもったいないと」
「けっ、俺は玉を狙ってるんだぞ」
――桔梗が、くすりと笑った気がした。
- 了 -
初出 2007.05.22 / 改訂 2008.10.03
みぃ様「射干玉(ぬばたま)」より
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