掌中の珠(しょうちゅうのたま)
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何も、こんな夜に来なくてもいいじゃねえか……。
心の中でそう呟いてみても、状況が変わるわけではないことは百も承知していた。
今宵は朔。
日輪が山の端(は)へと没した途端、運悪く数多の妖怪に遭遇した。朔の辛さは、力のなさ。それ以上に、大切なものを守り切れぬかも知れぬと慄(おのの)くひ弱な心。それでもと、変化しない宝刀で片端から斬って捨てるようにしてなぎ払うのだが、数に勝る妖(あやかし)は一向に減る気配もない。
そんな折、多勢に無勢の隙を突かれた俺は、“あいつ”を見失ってしまった。俺の背後にいたはずの“あいつ”は、悲鳴とともに忽然と消えた。振り返った俺の足元に広がっていたものは、奈落の底のような深い闇と、かすかに聞こえる流れる水の音だけだった。
「かごめ!」
一瞬の油断に、真冬でもないのに身が凍る気がした。
俺にとって何より大切だと思うものが何であるのかは、分かっていた。
それは、己の命よりも、己の誇りよりも大切な――“おまえ”。
後悔があった。
妖に立ち向かう前に、なぜ俺は“おまえ”を連れて逃げなかったのか。
何よりも大切だったのは、“おまえ”だったのに……。
何よりも大切な“おまえ”のために、なぜ俺は引かなかったのだろうか。
それは、俺の驕りだったのかもしれない。
たとえ、朔のこの姿でも“おまえ”を守り抜くのだといった、独りよがりな自尊心。
大切なものを守るために、引く勇気が俺にはなかった。
けれど、これ以上の後悔は要らない。
俺は、敵に背を向け、“おまえ”を追って深い闇へと滑り落ちていった。
失われた嗅覚。
失われた聴覚。
失われた強靭な肉体。
何より守りたい“おまえ”を見失った己の不覚。
夜を徹して、“おまえ”の手がかり、温もりを求め、――俺は流離(さすら)った。
失われぬ想い。
失われぬ愛しさ。
失うことなど考えたくもない“おまえ”という存在。
東の空が徐々に白んでくる。
あれから、どれほどの時が過ぎたのだろう。
“おまえ”に代わるものなど何一つないというのに。
“おまえ”のためならば、俺は何だって投げ出せる。
本当は、武人としての、男としての矜持さえ捨てられる。
何が大切なのか分かっていながら、そのたった一つを忘れていた愚か過ぎる俺。
「かごめ!!!」
見つけた。
やっと見つけた。
川辺で冷え切った“おまえ”を見つけた。
時が止まったかのような、この戦慄、この恐怖。
「かごめを、かごめを連れて行かないでくれ……どこにも」
おまえの命の輝きを願う。
おまえを胸に抱(いだ)き、どこかにきっといると信じて、『神』に祈る。
手に温もりを感じた。
かすかに吐息が漏れるのを感じた。
頬に赤みが戻るのが目に映った。
そして、花開くかのように漆黒の瞳が見開かれる。
「きゃっ」
俺の腕の中で、おまえの恥じらう声が零れる。
そんなこと、気にしなくていいじゃないか。
おまえの命を取り戻せたんだ。
間に合ったんだよ。
おまえを腕に抱き締め、俺は『神』に感謝する。
おまえこそは、『掌中の珠』
他には何も目に映らない。
どこかに存在する『神』に、朝靄の竹林で感謝する。
「ねえ、犬夜叉。私、……何で裸なの?」
俺の衣の端を手繰り寄せ、かごめは真っ赤な顔をしてこう言った。
「おまえ、川に流されて水に濡れきって冷たくなってたんだよ。だから……」
口下手なはずの俺が、その経緯(いきさつ)をすらすらと口にしている。なんだか自分でも妙な気がする。
「だからって、何よ」
頬を膨らませて怒っているかごめが、無性に可愛い。俺が正直に「怒っているかごめは可愛い」なんてん口にしたら、おまえはどんな顔をするだろうか、と夢想する。
「だから、濡れた衣を脱がせて温めようと思ったんだ」
とりあえず、にやけそうになる台詞は胸にしまって、事実を口にしてみた。
「あんたまで衣脱いでるじゃない」
かごめが、かごめらしい言葉を口にする。
「そりゃあ、こういう時は人肌が一番だろ?」
俺はかごめが生きていると実感できて、嬉しくて少し笑っていたのかもしれない。
「あんた、衣を脱いだんなら、それを着せてくれればいいじゃないの」
もう、そんな台詞を口できるほど元気が出てきたんだ。
「おまえ、死にそうなくらいに冷たかったんだぞ。衣ぐらいで温まるか!」
「えっ」
「あのな、息も脈もすっげぇ細くなってたんだぞ」
「そんなに危なかったの?」
「ああ」
そうさ。ただひたすらにおまえが心配だったんだ。それ以外のことは何一つ考えなかった。
「犬夜叉、……ありがとう」
かごめが素直に感謝の言葉を口にする。
こんな時に浮かぶかごめの笑顔が、俺は何よりも好きなんだ。
「もういいから。何だっら、今からもっと“直に”温めてやろうか」
「うーっ、おすわ…」
俺は、愛しい花の蕾の温もりを確認した。
神とおまえに感謝を込めて、
生きていてくれて、ありがとう、と。
後から思えば、よくも俺にこんな台詞が口にできたものだと思う。
後から思えば、まさか俺がこんな行動に出れたものだと、今更ながらに思う。
「なんか、もったいねえことしちまった気がする」
後から思えばあれではちょっと物足りなかったと、犬夜叉は自分のお人好しを不甲斐なく思ったりもした。けれど、普段の犬夜叉であれば、あんな台詞も行動も決してできるものではなかったはず。あれは、朔の日ゆえの素直さだったのだろう。
それでも、少しずつではあるけれど、素直な自分も悪くはないと思うようになってきたことに、気づいていないのは当の犬夜叉本人だったりする。
- 了 -
初出 2004.10.28/ 改訂 2007.05.26
柚月妃紗様「夜明けのまどろみ」より