不器用な男の贈り物
「ほらよ」
「えっ?」
ずいっと目の前に差し出されたものは、無骨な手が握り締めた色鮮やかな黄色の小さな花束。差し出した人物の頬にはほんのわずか赤みが差しているように思えたけれど、その人物は背を向けていたので「確かに」とは言い切れなかった。
「ありがとう」
「おう」
かごめはまずは一番に礼を口にした。そして花にあまり縁があるとも思えぬ贈り主がくれた可愛い贈り物を手に聞き返した。
「これどうしたのよ」
「あの山の林に生えていた」
花の贈り主である少年――犬夜叉が顎をしゃくるようにしてその方角を示す。彼にしてみればそれはいかにも彼らしいぶっきらぼうな仕草による返答であった。
「……」
手渡された数本の花をかごめは言葉もなくじっと見つめていた。
「気に入らねえならほっぽっていいぞ。どうせ直ぐに枯れちまうし」
かごめを振り返った犬夜叉の顔には、先ほど感じた通りに照れと、少しばかりの拗ねが混ざっていた。
「ううん、すっごく嬉しい。犬夜叉、ありがとう」
今度は満面の笑みを浮かべて、かごめはそう答えた。そこでかごめはようやく思い至る。犬夜叉に花を貰って嬉しかった気持ちをきちんと伝えていなかったことを。それは何よりも大切なこと。通り一遍の儀礼的な感謝の言葉ではなく、かごめ自身の心がどう感じたのかということを。
もっともそれはあまりに珍しい犬夜叉の所業にまずはびっくりして、言葉が見つからなかったせいなのだけれど。
「あっちの林にいっぱいあった。おまえが好きそうだと思った」
かごめに笑みが浮かびほっと一安心したのか、犬夜叉は言葉を続けた。
「うん。この花の名前は知らないけど、綺麗で可愛いわね。好きになったわ。犬夜叉は知ってる花なの?」
「おまえ、おれがそんなことを知ってると思うのか?」
「たぶん……知らないと思う」
「おれが花の名前なんぞ知るわけあるか」
ふんぞり返って己の無知を素直に告白する目の前の少年をかごめは可笑しくも可愛いと思う。ただ素直にかごめが喜ぶと信じて、その花を摘んだその想いが嬉しい。少年の優しさにかごめの心はほこほこと温かくなった。
「ま、なんにしてもこいつに毒はないみたいだから安心しな」
「へえ、そうなんだ。でも、なんでそんなことが分かるよの。知らない花なんでしょ?」
「そんなもの、嘗めてみりゃ分かるだろ。まあ、念のため食ってみたけど大丈夫だった。美味いとはとても言えねえけどな」
それが当然のことだと犬夜叉はかごめに告げる。もちろん、食べるに当たっては、己の嗅覚、触覚、味覚等、五感を総動員しての慎重な下調べを前提とした上での最終確認ではあったのだけれど。
「犬夜叉、毒だったらどうすんのよ」
思わず、目を見張ってしまう。未知の花一輪にそこまでの危険をおして、自分に手渡してくれるその優しさと厳しさに。
「あんな、おれに本気で効く毒なんてそうそうあるか。効いたにしてもいいとこ暫く指先がしびれる程度だ。それでも、それで毒の有無くらいはだいたい分かる。ガキのころからそうやって確認して食って生きてきたんだ。ただそれだけの話じゃねえか。人間のかごめに花とはいえ毒なんて触らせられねえだろ」
犬夜叉はそんなことは騒ぐ必要もないことで、自分にとってそれは何の負担にもならない日常の範疇なのだと告げた。
「……」
「おい、どうしたんだ? 本当は気に入らなかったのか?」
そんな朴念仁な問いこそがかごめに犬夜叉の優しさを伝える。だからこそ、かごめにも犬夜叉に伝えたい思いがある。
「……馬鹿。そんなんじゃないわよ。犬夜叉が簡単に毒にやられるはずはないって、わたしはちゃんと知ってる。でも、そんな理由で無茶しないで欲しい。そんなことをしてくれるなら花なんて要らないんだから。こうして犬夜叉に危ない目に合わせちゃって」
「悪かったな」
「うん、悪かったわよ。心配かけるようなことをするんだもん。でも、犬夜叉がお花をくれたことはすっごく嬉しかった。だから余計に腹が立つのよ」
目に涙をためて、かごめは怒る。かごめが顔を曇らせるのは犬夜叉を気遣ってのこと。それはかつて犬夜叉がなかなか貰えなかった思いやりというものだった。
犬夜叉の心は温かな想いでひたひたと潤った。怒られて喜ぶなんて、旅の仲間の子狐がそれを耳にすれば物好きな奴めと評すだろうけれど。
「じゃあ、次からは内緒にしとくぜ」
「それも駄目! 無茶したら、おすわ……」
「馬鹿野郎、おまえ何言うつもりだ。お礼を言われても、おすわり食らったらどうにも割りに合わねえじゃねえか!」
すかさず、かごめの口を覆う。二人の間にいつの間にか隙間はなくなっていた。
「あ、ごめん」
「気をつけろ」
「あのね、本当に嬉しいんだよ。犬夜叉がわたしのことを気にかけてくれたんだから。でも……」
「でも?」
「でも、犬夜叉が危ないことをするのは嫌なのよ。それと、せっかくあんたからお花を貰ったのに、こんな旅の途中だと花瓶に活けておくこともできないし、直ぐに枯れちゃうと思うと勿体ないなあって」
「……」
犬夜叉の口元に思わず笑みが浮かぶ。
ああ、かごめはこんな女なんだ。
花一輪でも喜ぶ女なんだ。
そして、摘まれた花の行く末さえも心配する女なんだ。
「犬夜叉、なんでそこで笑うのよ!」
かごめには急に黙り込んだ犬夜叉の気持ちなど分からない。それでも、笑みを浮かべた彼を眺めながら、気を悪くしたわけではないことだけは分かってほっとする。ほっとしたからこそ、悪態もつけるのだった。
「かごめ、それじゃ見に行くか? 辺り一面に咲くこの花を」
「ほんと? 今から連れてってくれるの? 嬉しい」
今度こその憂いない満面の笑みに、犬夜叉も心が弾む。
「じゃあ、行くか。直ぐそこだから」
「ありがとう」
かごめは最初に口にした言葉をもう一度犬夜叉に伝えた。今度は満面の笑みとともに、嬉しいという想いをいっぱいに詰め込んで。
そこは、いつも山の中の進むことが多い犬夜叉たち一行が珍しく立ち寄った街道沿いの繁華な街。そこで少しでも四魂の玉に結び付きそうな情報はないかとその土地周辺の怪異や噂話についての聞き込みをしたのだった。実際にそれを行動に移したのは一行の中でも口の上手さを誇る弥勒であり、少女たちであった。
犬夜叉に誰もその点での期待はしない。ただ、彼は彼なりに、彼ならではの方法で聞き込みをする。そう、聞き耳を立てるという方法によって。
これはそんなひと時に彼の人並み外れてよく聞こえる耳が捉えたたわいもない話題であった。
雑踏に混じって、とある会話が犬夜叉の耳に届く。始めは大して興味を引かれることもなかったけれど、延々と続くその話がなぜか犬夜叉の耳に付く。そして、いつの間にや聴き入っていた。
きっとそれは人馴れしないまま長い時を生きてきた彼にとって、ここ最近の彼を取り巻く環境の変化からその話題は彼の人生勉強の一環となっていたからかもしれない。傍から見れば、何の変哲どころか下世話とも呼べる内容ではあったけれど。
「女に気持ちを伝えたかったら、まずは贈物(ぞうもつ)。で、それから言葉。その後ぐいっと一気に寄って押し倒す」
「兄貴、それで本当に上手く行くんですかい?」
「おうよ」
「で、どんな贈物いや贈り物が利くんで?」
「そりゃあ決まってらあ。小綺麗な反物とかが一番だ」
「高価っすね」
「他にはべっ甲細工の櫛や珊瑚の簪、お手軽なものならば紅なんてのでも、女はころりと来る」
「さすがは兄貴、女心が良く分かってらっしゃる」
「と、思うだろうが」
「え、違うんですかい?」
「もちろん、そういうものを女は喜ぶ。だがな」
「そうでないこともあるんで?」
「ああ。花一輪だけで喜ぶ女もいるんだぜ」
「それだけで? そいつは安上がりだ」
「女ってやつは、“想い”を形としてもらう贈物はどんな時でも嬉しいものらしい。その一方でその贈物の“値”に拘る女と、その贈物に込められた“想い”を受けとる女がいる」
「そりゃあ、値が張る方が想いも深いと思うもんでしょ」
「そこが男の浅はかさなんだそうな。概していい女の方がモノに拘らねんだとよ」
話の内容に思わず苦笑する。そして想像する。さしずめ、かごめなら花一つで喜びそうだと自信を持って言える。かごめがいい女かどうかは別にして。
誰かにそれを話してみれば、きっと惚気だと揶揄されるだろう。それすらも分かっていない朴とつさを持っているのが犬夜叉だった。
もっとも、かごめと出会う前の犬夜叉であればそんな話に端から耳を傾けることはない。それ以前に、こんな街に近づくことさえなかった。変わった自分に一番気づいていないのは犬夜叉本人であった。
話はもっともっと続く。兄貴と敬われる男の己の経験とも、人伝の伝聞ともつかぬ話が自慢げに語られる。もっとも、ここで犬夜叉の女談義探索は終了してしまうのであるのだが。
「犬夜叉、お待たせしました」
「おせえ」
たいして退屈をしていたわけではないけれど、それでも返す言葉は天邪鬼。
「すみませんね。でも収穫はありましたよ。今夜の宿のあてを見つけました。ついでに一つ怪しい噂も」
宿の確保こそが真の目的ではないのだろうかといぶかしみつつ、それも毎度のことと諦めまじりで受け止める。何よりもかごめたちが野宿ではなく一夜の宿を確保できたことは犬夜叉にとってありがたくもあった。
「おまえは何かいい話が聞けましたか?」
「別に。与太話しか聞こえてこねえ」
「おや、どんな勉強をしたんですか」
「なにが勉強だ。おまえがいつも言ってることと大差あるか。女の話ばっかだ」
「おやおや、そういう話を選んで聞くとは犬夜叉も男になりましたね」
何を話してみても無駄。助平を意識の衣にした時のこの仲間の法師はどこを叩いてみても冗談交じりの与太話しか出てこない。それはある意味で犬夜叉が悟った経験則でもあった。へたに会話を続ければ、藪で蛇をつつくことになりかねないのだと。
「で、あいつらはまだかよ」
会話の内容を切るべく、犬夜叉は今も戻らぬ仲間の消息を尋ねた。弥勒の帰還で、かごめが今隣にいないことが実際落ち着かないのだった。
「珊瑚もかごめ様もあちらの市で、聞き込みついでに何か買い物をするそうですよ。こういった華やいだ街ではやはり心浮き立つものらしいですから」
「けっ! どうせ冷やかしだろうが」
「おなごとはそういうものです。そこがまた可愛いじゃないですか。大人げないこと言ってないで、もう暫く大人しく待ちなさい。それとも、おまえも行ってかごめ様に何か買ってやりますか? 金なら少し余裕がありますからどうです?」
「馬鹿、なんでおれが!」
「だったら静かに待ってなさい」
それは犬夜叉の焼きもちなのかもしれない。店の男にかごめが愛想を振りまくことへの。贈り物ひとつ選んでやれない自分自身の不甲斐なさへの。
「ここだ」
そこは少し陽が陰った沢近くにある山吹色をした小花の群生地。一面の花畑を前にかごめは息を飲む。
「……」
「花が咲いてるだけだけどな」
「犬夜叉、ありがとう。すっごく嬉しい」
そこには目の前の花に目を潤ませている少女がいた。
「こんなことぐらいしか、おれにはしてやれないけど」
「ううん、十分過ぎるわ。わたしたちだけがこれを見ているなんてもったいないくらいよ」
素直に嬉しさを伝えられる素直さがかごめの美徳であった。
「そっか、じゃああいつらも連れてきてやるか?」
馬鹿正直にもほどがあると言ったら良いのだろうか、それこそがムードをちっとも解さないと評される所以だろうか。一方で、その裏表のない実直さが犬夜叉という少年の人となりでもあった。
「ええっ? せっかくだから、もうちょっとだけ浸らせて。せっかくあんたとふたりで見てるのに」
「……」
独り占めを嬉しいと言いながら、一方でもったいないとも言う矛盾するかごめの言動が可笑しくも嬉しくもある。そんな他愛無いことでふくれっつらをするかごめもまた可愛いと思う。
「笑ったわね!」
「笑ってねえよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃねえって」
かごめならば、きっとそう答えるだろうと思っていた。
花だけで満足するだろうと。
犬夜叉の心はそれだけで満たされた。
おれのかごめはそんな女だと。
もっとも、偶然この花の園を見つけた時、犬夜叉にそんな計算も詮索も何一つありはしなかった。
ただ、思った。
かごめが喜びそうだと。
ただ、それだけだ。
あの日、犬夜叉が聞き漏らすこととなった会話はその後もまだまだ続いていた。
「いい女ってのはそもそも人の心を計らねんだ。だから高価なモノだろうが路傍の花一輪だろうが関係ねえ。男の気持ちっちゅうか男の誠意がちゃんと酌めるんだとよ」
「ふーん。で、兄貴は惚れた女に花を贈ったんですかい?」
「おめえ、ちゃんと俺の話を聞いてたのかよ」
「えっ?」
「いい女がそこらにごろごろ転がってるはずがねえだろうが。ついでを言えば、いい女が喜ぶ男の贈物は男の器量次第ってことさ」
「難しい話ですね」
「そういうこった」
- fin -
初出 2009.08.11
藤様「緑の中で」より
あとがき (click開閉)