そばにいるから
あの日、わたしは桔梗の遺志を、願いを受け取った。
桔梗を見送ったあの日、力不足と分かっていても、わたしにできることであればと素直にそう思った。今もそう思ってる。だけど、実際に何をすればいいのかと問われれば、あれからずっと考えているけれど、今も何一つ答えなんて見つかっていない。
犬夜叉も、弥勒様も、珊瑚ちゃんも、わたしも、「まずは四魂の玉の欠片を集めよう」と言ってきた。けれど、欠片を全部集めるためには、鋼牙君や琥珀君の欠片も当然必要になる。本当は、わたしたちの誰もが、先のことなんて何も考えてなんかいなかったのかもしれない。それ以前に、本当に四魂の玉を完成させることを望んでいたのかしら。琥珀君の欠片を前に、今のままの琥珀君を守るために、これ以上奈落に力を付けさせないためにも、奈落に欠片を渡さない。できれば奈落が持つ玉を手に入れたいと思っていただけなのかもしれない。
弥勒様を風穴の呪いから解放するためにも、奈落は滅しなくちゃいけない。それはわたしにも分かるのよ。でも、存在するだけで、いつの時も、結局はこの世に災厄を引き起こしてきた四魂の玉をこの世から消し去ろうと、わたしたちは本当に願っていたのかしら。もしかしたら、琥珀君の命を繋いでいる四魂の欠片という存在を、身勝手にも、この点については「善いこと」と、目をつぶってしまっていたただけかもしれない。珊瑚ちゃんのためにも、琥珀君を助けたいからと、大切なことをあえて見ないようにしてきたってことはないかしら。目の前の問題を先送りして、いつの間にか、玉を奈落の元で完成させないことだけを考えていたようにも思う。
改めて思う。桔梗はどれほど凄かったのかと――。
桔梗だけがちゃんと先のことを、方法を考えていた。たとえ犠牲が出ようと、それが琥珀君のことであれ、自分のことであれ、ただ一つの目的である奈落を倒すためならば、いざとなれば、そのための犠牲にも目をつむるのだと。
それでも、桔梗はできるうる限り犠牲を減らそうとしていた。ううん、違うわ。桔梗は自分以外の犠牲を減らそうとしていた。
桔梗のそんなところに、敵わないと素直に思う。一方で、たとえそれが自分のことであっても、誰かが犠牲になることを前提にして方法を考えることは、甘いと言われても、わたしはやっぱり嫌。
唯一私が持っていた戦う力、浄化の矢の力まで曲霊に封じられてしまった今、自分の不甲斐なさに涙が出てくる。その一方で、やっぱり誰かを犠牲にしてでもなんて方法は、やっぱり嫌。何か別の方法はないの? 何か……。
桔梗がやろうとしていたこと、「琥珀の…光を守れ…」という遺言、わたしにしかできないことがあるという桔梗の言葉を頼りに答えを探している。一方で、桔梗の言葉にこんなにすがっているのに、甘い、情けないと笑われようと、わたしはやっぱり誰かを犠牲にするような道は選べない。答なんて、道なんてちっとも見つからない。堂々巡り――まさしくこの言葉の通りだ。
「何ができるっていうの。わたしにできることなんてほんのちっぽけなことだけよ」
こんな風に言葉にして、不安に押し潰されてしまいそうな今の気持ちを、ほんの少しでいいから和らげたい衝動に駆られる。だけど、そんなことを口にすれば、今の犬夜叉ならば気遣って、きっとこんな言葉をわたしにかけてくるだろう。
「かごめ、おまえは無理しなくていい。あっちに戻ってろ」
嫌だ。犬夜叉にそばに居なくても大丈夫だと、ううん、要らないって言われたくない。わたしは、どんな時でも、どんな場所でも、犬夜叉のそばにいて、わたしにできる何かをしたいのよ。でも、その何かが一つも見つからないの。
「桔梗、教えてちょうだい!」
あなたなら何か方法を見つけていたんでしょう? 道を見つけたからこそ、あの時、琥珀君の欠片を使わずに奈落に挑んだのでしょう?
自分の無力が悔しくて、涙が溢れて止まらない。
「かごめ、どうしたんだ。大丈夫か? しんどいなら、暫くの間、あっちに戻っているか?」
いつの間に、犬夜叉が来ていたのだろう。犬夜叉に聞かれないように、ひとりっきりになれる場所を探したはずなのに。そして、やっぱり言われてしまった。
「……」
返す言葉に困って、わたしはうつむいたまま黙っていた。きっと、役に立たないから、足手まといだからと続くのだろう。
「おれがおまえの代わりにしてやれることならば、俺が代わりにしてやる。だけど、おまえにしかできないことは、おれには見守ってやることしかできねえ。おまえはおまえだ。おまえの代わりはいない。だから、しんどいなら少しあっちに戻って休んでくればいい。おれは待ってるから」
「えっ?」
それは、予想と少し異なる言葉だった。
わたしの上に影が落ちる。それは、犬夜叉が作り出したものだ。草がかさりと音を立てた。それは、膝を抱いて小さくなって座っていたわたしの前に、犬夜叉が腰を下ろした際に立てた音だった。犬夜叉はわたしの頭を優しく抱え込んだ。
「かごめ、無理すんな。おまえが頑張っていることは、おれが誰より知っているから」
「……」
犬夜叉の優しさが胸に沁み込んでくる。
「本当のことを言えば、できれば、おまえには危険なところにいて欲しくない」
小さいけれど、きっぱりとした声が頭の上からまた降ってきた。
ぴくりと心が騒ぐ。
「わたしが役に立たなくて足手まといだから?」
「違う」
間髪入れずとはこのことだろう。
「じゃあ、どうして……」
「大切だから。おまえを失いたくないから」
「犬、夜叉……」
「今のおまえは霊力を封印されちまっているだろ? だから、余計に……恐い」
「恐い……」
「ああ、恐い。とてつもなく恐い。おれにとっておまえの代わりなんてどこにもいない。そんなこと、今更言わなくたって分かってるだろが!」
真顔で犬夜叉は声を荒らげる。
時に、子供じみた表情や言動をして見せる犬夜叉だけれど、「命」を前にした時の彼は、どんな時も、生真面目過ぎるほど生真面目で、真摯で、本気だ。
元より、犬夜叉の言葉に嘘なんてない。今までだって、ずっとそう。たとえ自分を追い詰めることになったとしても、その裏表のなさが犬夜叉なのだ。それなのに、当の本人である犬夜叉だけが、それが特別なことだという自覚がまるでないのだけれど。わたしは、そんな犬夜叉が愛しくてたまらない。好きでたまらない。
「わたしはどこにも行かないわ」
わだかまりが消えて行く。
「だったら、おれは命をかけておまえを守る」
迷うことなく、彼は言い切った。
「……」
「おい、どうした。何か気に入らねのか?」
この人は、どうしてこうなのだろう。どれほどわたしが嬉しいか、なぜ伝わらないのだろう。本当は何も言葉にしなくても、犬夜叉の気持ちは十二分に伝わっている。それを改めて言葉にしてくれたのだ。気に入らないはずがないじゃない。嬉しくないはずがないじゃない。どっちかといえば、嬉し過ぎるに決まってるじゃない。なぜそれが、犬夜叉には伝わらないのだろう。
「犬夜叉、わたしはここに、犬夜叉と一緒にいるわ。大して役に立てないかもしれないけれど、わたしにしかできないことも、きっとあると思うから」
何一つ問題が解決したわけじゃない。それでもここに、犬夜叉の隣りで何ができるだろうかとわたしは考えていたい。それが、今、わたしが選ぶことができるたった一つの道なのだと思える。犬夜叉のひとことが、真っ暗な闇に閉じ込められていた私を救い出してくれた。わたしは、膝を抱えていた腕を解くと、犬夜叉の首へと手を伸ばした。
「何言ってやがる。今だって一つあるだろうが。おまえにしかできねえことが」
背中に回された犬夜叉の腕が、わたしをぎゅっと抱き絞めた。
「あるって、何が?」
「かごめはおれを嬉しい気持ちにしてくれる」
犬夜叉の声には、どこか照れが含まれていた。
「な、なに言ってるのよ」
予想もしない答えだった。
「男ってのは、何に変えても守ってやりたいと思う女がそばにいてくれる。それが、嬉しい。それだけで、今よりもっと強くなれる」
「その女って、わたしのこと?」
「おまえの他にいるかよ」
犬夜叉は呆(あき)れたような顔をしていた。
「……」
ぽかんと犬夜叉の顔を見つめて、呆(ほう)けていたのはわたしの方だった。
「本当は、安全な場所にいてくれた方がもっと安心できると分かっててもな」
犬夜叉は大人びた真面目な顔をして、わたしの心臓が飛び出しそうになるような言葉を口にした。それも、ぽろりと何気なしでだ。それって、反則じゃないの?
「おいっ! どうした」
「……嬉しい」
「そ、そうか?」
先ほどまでの先が見えない苦しさが、今も本当の意味でなくなったわけじゃない。それでも、今にも押し潰されそうだったわたしの心を、犬夜叉は救ってくれた。冷え切って、がんじがらめになっていた心が、ほろほろとほつれ緩んでいく。ひとりきりで悩んでなどいなくていいと、わたしにだってできることがあるのだと。
いつの間にか犬夜叉の両の手が、わたしを覆い隠すようにがっちりと抱きしめていた。
ふと思う。朴念仁の犬夜叉にわたしの今の気持ちはちゃんと伝わっているのだろうかと。ううん、届けたい。犬夜叉に、わたしの心を真っ直ぐに届けたい。犬夜叉の言葉がどれほど嬉しかったのか。
「犬夜叉、知ってる?」
わたしは犬夜叉に問いかけてみた。
「何をだ」
きょとんとした声が返ってきた。ああ、いつもの犬夜叉だ。さっき、恥ずかしくなるような台詞をさらりと口にした人とは到底思えない。
犬夜叉がくれた勇気だ。もう一度、大きく息を吸い込むと、わたしは犬夜叉を真っ直ぐに見つめて、言葉を続けた。
「あのね、女の子もね、好きな人がそばにいてくれたら、どんなことにでもひるまずに立ち向かえるってものなのよ」
にっこりと、真っ直ぐに、真摯に。まるで、バレンタイン・デーの女の子のように、飛びきりの勇気を胸に宿して、きっぱりと。
「好きって……」
あろうことか、こんな反応が返ってくるとは。この態勢、この状況で、今、当の本人が抱きしめている女の子のなけなしの勇気をどうしてくれるのよ。
「あんたのことに決まってるじゃない」
思わず、大きな声で叫んでいた。
「……」
腕の中から見上げると、そこには見る間に頬を朱に染め、ぴくりぴくりと耳を動かす犬夜叉がいた。鈍い、鈍過ぎる! というよりは、間抜け過ぎる!
「好きよ。わたしは犬夜叉が好き。だ〜い好き」
わたしは素直にこう言って、大好きな人の胸に顔を埋めると、犬夜叉の背中に回した腕にぎゅっと力を篭めた。どうして今まで、こんな簡単な一言を口に出すことができなかったのだろう。たとえ、桔梗のことがあろうと、わたしの気持ちに変わりなんてないのに。
「……おれもだ」
犬夜叉の額がわたしの額にこつんと突き合わされた。
「おれもおまえが好きだ」
わたしだけにしか聞き取れないような小さな声ではあったけれど、犬夜叉ははっきりとこう言った。
「……うん」
そして、わたしの耳に顔を寄せると、低くかすれるような声でこう続けた。
「かごめ……、どんなことがあったって、おれがおまえを守るから」
「うん、わたしもずっとあんたのそばにいるから」
途方にくれていたあの日。
進むべき道はちゃんとあるのだと、わたしひとりで抱え込んで悩む必要は決してないのだと、犬夜叉が教えてくれたあの日。
今も、どきどきした気持ちと一緒に、あの日の想い出が鮮明に蘇ってくる。
犬夜叉の言葉とともに。
犬夜叉のするりと滑っていった指の軌跡とともに。
そして、大きく鳴り響いていた早鐘のようなわたしの心臓の音とともに。
- 了 -
初出 2010.02.03 / 改訂 2010.02.19
雪花様「告白」より
あとがき (click開閉)