くいっ、くいっ、くいっ…の、その先は?
――くいっ、くいっ、くいっ。
犬夜叉の耳って、触るととっても気持ちがいいのよね。そう、手触りがたまんないの。ビロードみたいにびっしりと柔らかい白い産毛が生えていて、それでいて艶やか。それから、厚みも絶妙。そうね、餃子の皮みたいにもちもちっとしてて、ちょうど皮四枚、いや五枚分くらいかな? ああ、癒される。ついでに、このピンと立ったところも可愛い。いや、かっこいい。
「……はあっ?」
ふと気付くと、俺はかごめに背後を取られ耳を引っ張られていた。
警戒心が足らねえからだとそしられるかもしれねえけれど、どこの誰がそんなことをすると思うんだ?
背後から殺意や害意を持って忍び寄ってきたのであれば、俺だって当然警戒する。けれど、かごめはそんな気配を何一つまとわずにやって来たんだ。それも、「犬夜叉〜」って、のんびりと呑気な声で俺に呼びかけて近づいて来たんだぞ。
突然ひとの耳を引っ張るなんてことは、普通はやらないものだろう。いや、こいつは特別なのかもしれねえ。もっとも、かごめだけじゃなくて、かごめのおふくろさんにも前にやられたことがあった。それも初対面で……。
「おいこら、かごめ! おめえ、ひとの耳をおもちゃにして引っ張んな。むずむずする」
俺はかごめの手を頭を振って払いのけると、振り返りざまにこう返してやった。事実、耳がくすぐったい。かごめのやつは、遠慮という以前に、俺に警戒心さえ持っていない。
「ごめんごめん」
かごめは手をひらひらと振ると、さして悪びれた様子もなく謝る。
「……」
あっけらかんと謝りやがって…。そんなんじゃ、俺もこれ以上怒れねえじゃねえか。この素直さがかごめの強さなのだろうか。
――くいっ、くいっ、くいっ。
「これだったら、気持良くない?」
俺が睨みつけていると、かごめは俺の耳ではなく、今度は俺の耳の付け根を揉みほぐすかのようにゆっくりと指で指圧していた。
「おまえ、懲りてねえな」
俺は上目遣いで、かごめを再び睨みつけた。
「ぶよもこうやって、“くいっ”ってやってやると喜ぶんだよ」
かごめはにっこりと笑うとこう言った。
「俺は猫じゃねえ」
どこの誰であろうと、猫といっしょくたにされて喜ぶやつがいるか。
「私もママにこのあたりをこうやってマッサージしてもらうのが小さい頃大好きだったの。だから、犬夜叉もこうしてあげると気持ちいいかなって」
「……」
俺の睨みもなんのその。かごめは俺の剣呑な気配を気にも止めず、その手を休めもしない。
「犬夜叉はこういうの好きじゃないの? こうされると心がゆったりとしてこないかな。どう?」
かごめは、単に自分がやってもらって気持ち良かったことをしているのだ。にっこりと笑いながら、こんなことを言うかごめには悪気など全くない。
「……」
俺は返事を返すことなどできはしなかった。本当を言えば、かごめの言う通りなのだから。
誰かが傍らにいる。自分という存在を認め、悪意ではなく好意を寄せてくれることは、俺にとってなかなか慣れないものではあるが心地良い。そのくせ、「そうだな」なんて、俺は素直に口になんてできはしない。永遠とも感じる長い時を、独りで過ごしたきたことが孤独に感じられてしまう。いや、そうだったと自覚させられてしまうから。
だから、俺はかごめにこう切り返してやった。
俺は、俺の耳を弄るかごめの両の手首をぎゅっと捉まえると、身を翻し、互いの位置を入れ替えた。
「そういうおまえは、自分の耳、弄られてえのかよ」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「へえ、そうかよ」
俺は、俺を真下から見上げるかごめの耳をぺろりと舐めてやった。俺の右手はかごめの右手首を押さえているし、左も右に同じ。そして、じたばたともがいて俺の懐から抜け出そうとする両の足は、俺の両足で挟んで動けなくしてある。
「ひゃっ」
かごめはぴくりと身をすくませた。
「ちょっと、何すんのよ」
「だから、俺と同じ目に合わせてやろうってな」
「どこが一緒よ。私はあんたみたいに舐めてなんかいないわ」
「両手、塞がってるから仕方がねえだろ」
いつの間にやら、俺は組みしいたかごめと言い争っていた。
俺も焼きが回ったもんだ。
かごめと一緒にいると、周囲への警戒心が殺気さえなければ霧消してしまうらしい。
「ねえねえ、楓様。あっちの柿の木の下を見て見て。犬夜叉ってば、巫女さまとあんなことやってるよ」
「ほんとだ! うちの父ちゃんと同じことやってる」
「わ〜、“また”やってんだ。今度は犬夜叉が上だ。仲良いねえ」
子どもたちの大きな声が聞こえてきた。
「……」
これを不覚と言うべきか。俺は、ガキどもの台詞にその場で固まってしまった。
そして、楓ばああまでが俺に向かってこう言いやがった。
「犬夜叉、それにかごめ。おぬしたち、そのようなことは子どもらの目に触れるところでするでない。おぬしらが仲良く懇ろになることはいっこうにかまわぬ。だがのう、せめて場所を選べ。お主らも若い。暗くなるまで我慢しろとは無粋なことは言わぬが、子どもらにあたら見せるものでもなかろう」
「見るでない。おぬしらにはまだ早い」
楓は、俺とかごめに背を向けると、子どもたちに向ってこうも言いやがった。
「でも、お外でやるなんてすごいね。犬夜叉も」
「ほんと。父ちゃんたちだってやらないよ」
時代とは恐ろしいものである。子どもたちの言葉が意味するところはまさに“それ”。まこと、的を射たものであった。それは、親も子も一緒の雑魚寝ゆえ、生き物としての当然の性(さが)を見知った大らかさ。
「ささ、おぬしらは、こちらに来い。仲の良い二人に水を差すものではないしの」
それにしても、楓ばばあや連れ立って通りかかる村のガキどもに気づきもしない俺は、どうにも緊張感が足りないのではなかろうか。その元凶は目の前のかごめ……なのか。そう思いながらかごめの顔をじっと見つめていた。
「犬夜叉、お願いだからどいてちょうだい」
かごめが顔を真っ赤にしてこう言った。
「えっ」
「みんなに誤解されるじゃない」
「……」
確かに誤解は適わねえ。俺はかごめの手を放し、ひとまず体を離した。
「おすわり」
かごめは静かに息を吸うと、おもむろに忌まわしい言霊を発した。
「あ、見て見て! おすわりされてるよ」
俺が地面に叩きつけられた際の地響きに振り返った村の子どもがこう言った。
「犬夜叉、いくらなんでも無理じいでおなごを手ごめにしてはいかん」
「犬夜叉、巫女さまがとっとも綺麗だから、ついおそっちゃったんだね」
「早く両想いになれるといいね」
「そうじゃの」
ばばあ、ガキども……。それは誤解というものだ。
俺は断じて嘘は言わねえ。
そもそも始まりはかごめの悪戯なんだ。
俺は何一つ悪くない!
柿の木の下で俺の耳を弄ぶかごめにちょっとした仕返しをしていたら、俺は楓ばばあやガキどもに要らぬ誤解と、どうにも理不尽なかごめのおすわりを受けることとなっただけなんだ。
「俺は悪くねえ……」
と、穿った地面の穴に向かって、犬夜叉はひとり呟いた。
- fin -
初出 2008.02.14
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