春の野辺にて
頭上を行く雲が陽の光を陰らせたのだろうか。のどかな春の野辺に、不意にひやりとした空気が流れ込んできた。薬草を摘む手を休ませ、晴れ渡った空を眩しそうに見上げると、かごめは遥か先まで広がる背景の青の中に、懐かしい飛影を捉えた。
かごめの視線の先には、彼がいた。白銀の長い髪をなびかせ、陽の光を受け虹色に煌めく優美な毛並みを悠々とたなびかせる戦神が。そして、相も変わらず、彼に付き従っている、いや、張り付いている緑色をした小妖怪も。久しぶりの邂逅に懐かしさが込み上げ、かごめは朗らかに呼びかけた。もっとも、空行く彼に、この場に下りてきて欲しかったわけではない。ただ、久方の出会いそのものが嬉しかった。彼という存在もまた、かごめ自身がこの地に、この時代に、ちゃんといるのだという事実を知らしめてくれる存在ゆえに。
「あれっ、なんかすごくイヤな顔した」
かごめの呼びかけに、空行く人はじろりと睨み返してきた。かごめもまた、眉を少しひそめて考える。今日の彼は機嫌が悪いのだろうかとか、三年前の彼はけっこう優しくもあったのにとも。もっとも、元々、愛想が良いわけでもない人だったことを思い出すと、かごめは自分に注意を向けてくれただけでも良しとするべきなのかもしれない、と思い至る。
「って、犬夜叉、あんたも」
空から地上へ、自分の正面の人物に視線を移したかごめは、きょとんとしたような、呆れたような顔をして、目をパチパチさせながらその顔をじっと見つめる。そこにあったのは、眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げた、いかにも嫌そうな顔。
「すげーヤな響きだった」
大人げない台詞を口にする犬夜叉は妙に子どもじみていた。そんな犬夜叉の顔を眺めながら、この二人はなんて良く似ているのだろうと、かごめは無性に可笑しくなる。
「ねえ、犬夜叉ってばなんでそんな変な顔してるのよ」
かごめは不思議そうに尋ねる。この時代に再び戻って以来、かごめが犬夜叉のこんな顔を見たのは初めてで、そして、それはなんとも懐かしい顔だった。
「変な顔ってのは何なんだ。この顔のどこが変なんだよ!」
大きな声とともに、犬夜叉は食ってかかるような勢いでかごめに膝をぐっとにじり寄せると、目の前でひらひらと動くかごめの手をぎゅっと押し止め手首を掴む。
「だって、すっごく嫌そうな顔してるじゃない。わたし、何か変なこと言ったっけ?」
けろりとした風に真っ直ぐな目で犬夜叉を見つめると、かごめは犬夜叉の問いへ思ったままに答えた。そういえば、以前にもこんな風に犬夜叉ににじり寄られたことがあったような気がすると、かごめはぼんやり記憶を辿る旅に出ようとする。
「ううっ……」
脱力しそうになる。犬夜叉も思い出していた。かごめは普段とてもカンが良く、犬夜叉自身さえ気づくことがなかった様々なことに目を留め、犬夜叉の心を優しく抱き止めてくれた。そのくせ、時に、肩の力がすこんと抜けそうになるほど鈍かったことを。
「何がそんなにイヤなのよ」
それに対するかごめの方も、嫌悪、不貞腐れ、脱力と、目の前で七変化する犬夜叉の顔を前に、その理由が分からない。かごめが知っている彼らの関係は、かごめが犬夜叉と出会ったばかりのころは最悪といってもいいほどであったけれど、いつしか互いを認め合うようになった。そして、先ほど、空行く彼の近況さえも、目の前の犬夜叉から聞いたばかりだった。
「……」
犬夜叉からの返答はない。犬夜叉は、かごめからぷいっと視線を反らすと、無言のままだっだ。それは決まって犬夜叉が拗ねていたり、照れている時の仕草だ。それでも、先ほどまで犬夜叉がまとっていた怒気は消えていた。
「ねえ、何か言ってちょうだい。言ってくれなきゃ分からないこともやっぱりあるの」
さわりと吹き抜けて行く風に、かごめの髪がふわり揺れる。
「おまえ、さっき、あいつに向かって何て言ったと思ってんだ」
しばしの沈黙ののち、犬夜叉はかごめと視線を合わせると、眉間の皺もそのままの仏頂面で、ぽつりと呟く。
「お義兄さん」
空に向かって件の人物に呼び掛けた時とは、声の調子も、大きさも異なるものではあったけれど、一言一句違わぬままの言葉だった。かごめの表情も、口にした言葉と同様にあっけらかんとしていた。
「……」
ふっと、犬夜叉の口からはため息が漏れた。かごめの発したその言葉には、戸惑いも、気恥ずかしさも、何一つないことは明らかだった。
「間違ってないでしょ? 殺生丸はあんたのお兄さんなんだから」
天然――こんな言葉が犬夜叉の脳裏にぷかりと浮かぶ。天然こそが最強とは、まさにこのことを指すのだろうか。確かに、かごめが口にしたことは事実だ。犬夜叉の好き嫌いに関係なく。
「ねえ、何をそんなに嫌そうな顔してんのよ。あっ、あんた、もしかしてわたしにプロポーズ、……ううん、求婚してくれたことを後悔してるわけ?」
かごめの発想は犬夜叉の斜め上、交わることなど決してない方向にひとりずんずんと向かって進んで行く。怒りよりも、驚き。そして、心配とともに。
「するわけねえだろが!」
間髪入れず、犬夜叉は顔を真っ赤にして叫ぶ。かごめの手首を掴むと、そのまま、かごめのからだごとぎゅっと引き寄せる。そして、犬夜叉は腕の中に倒れるようにして飛び込んできたかごめをきつく抱きしめた。激情に任せるように、激情をこれ以上暴走させまいと堪えるかのように。
「後悔なんかするわけねえだろ。やっとだ。やっと、おまえをこの腕に取り戻すことができたんだ。おれがおまえを二度と手放すはずねえだろうが。間違ってもそんなことはねえ。だから、冗談でもそんなことは言うな」
犬夜叉にとって、かごめの誤解だけは決して許すことなどできはしないのだ。
「うん」
かごめの返答にほっと安心の吐息を漏らすと、犬夜叉は、改めてかごめをきつく抱きしめた。
三年という時を超え、犬夜叉がどれほど願っただろう、かごめの柔らかな声音、優しい匂い、温かなぬくもり。そして、何よりも心を捉えて離さなかった愛しい笑顔。それが今、犬夜叉の腕の中にあった。
すっぽりと腕に収まり切ってしまう華奢なかごめの体を抱いたまま、きっぱりと恥かしげもなく口にする犬夜叉の言葉に、かごめの胸は熱くなる。大きな手、力強い腕、厚い胸。かごめが思い切り伸ばしても、その背で自分の両の手が再び互いを取り合うことがない広い背中。三年の間、ずっとずっともう一度、ここに再び帰ってきたいとかごめも願った犬夜叉の腕の中。そこに今、かごめはいた。
「おれはおまえに言ったよな。おれと一緒になってくれ、と。おれと夫婦(めおと)になってくれ、と。そのこと自体、おれはこれっぽちも後悔なんてしてねえ。っていうか、やっと口にできたと思ってる。おまえが、その申し出を受けてくれて、心の底から嬉しかった。それは今も変わらねえ」
言葉で説明すること自体、犬夜叉にとって苦手なことであったけれど、これだけは伝えなければいけないと、犬夜叉は精いっぱいの努力をする。
「うん。……嬉しい」
かごめはほぅと息を吐く。静かに静かに、幸福感がかごめの胸に広がっていく。元よりかごめは犬夜叉を疑っていたわけではない。嘘を吐(つ)くよりも、沈黙を選ぶ。そんな不器用な誠実さこそが犬夜叉らしさだった。最初からできもしないことをその場限りで口にする男ではなく、口に出したからには、命をかけて約束を守ろうとした。それが犬夜叉という男だった。だからこそ、かごめはいつの時も犬夜叉の言葉を信じることができたのだった。それは、今も変わりない。
「けどな、今はまだ祝言の前だし、実際に夫婦になってねえだろ。だからまだ、おまえがあいつをそう呼ぶのはちょっと早いというか、そうなっても、呼んで欲しくないというか……。ああ、もう、なんて言えばいいんだ」
犬夜叉は顔を右の手の平で覆うと、一気にまくしたてた。
「別にいいじゃない。あんたと結婚したら、殺生丸はわたしにとって、やっぱりお義兄さんってことになるんだし、今だって、わたしはあんたの許嫁なんだし。ちょっと早いか遅いかの違いだけじゃないの」
矜持がどうの、面子がどうの、立場がどうのと、煩いことを言う男と違って、女の方が新しい環境への順応性ははるかに高いとしたものだ。ましてや、その身ひとつで、時さえ超えて犬夜叉の胸に飛び込んだかごめだ。
「……」
かごめの言葉は真実に違いないだけに、犬夜叉には言い返すだけの言葉が出てこない。
一言で言ってしまえば、犬夜叉が殺生丸を「兄」と呼ぶことへの気持ちの整理がついていないだけの話だった。ただ、そこで一歩踏み出すための鍵となっているものが、物心がついて以来ずっと引きずってきた感情であるゆえに、素直に受け入れられないでいるだけの話だった。
もちろん、かつてのように純粋な妖怪である殺生丸に対して、自分が半妖であることを卑下した気持ちはまったくといってよいほど消え失せていた。互いに刀を交え、奈落を追う過程で、彼の戦士としての矜持、その強さに信頼すら持つようになっていた。さらには、己の守るべき者のためには迷うことなく危険に飛び込んで行くその姿にも共感を覚えた。そして、今では、妖怪と半妖という違いこそあれ、同じ父の血を引く者であることを、誇りにさえ思うようになった。多分に心の奥底では、既に犬夜叉も殺生丸を兄と認めていた。殺生丸にしてみても、きっと同じだろう。それでもだ。
年の離れた男の兄弟にとって、年長の兄は、鼻っ柱の強い弟にとって、いつかは超えたいと願う父にも等しい存在であり、いつまでも追いつけない目標として常に己の先を歩む存在であり続けてほしいと願う、近くも遠い星。そんな一目置く存在でありながら、一方で、なかなか追いつくことができないからと、身勝手にも苛立つ気持ちをつい向けてしまう対象ではないだろうか。
年下の弟は、自尊心の強い兄にとって、自分にもっと近づいてほしいと心密かに期待する存在であり、そのくせ、己自身もさらに成長し、おまえも更に高みを目指して登って来いと、終わりのない期待をかける。ある意味、己自身が成長するための起爆剤ではなかろうか。おまえにだけは負けはせぬと、いつの時も風上から睥睨する存在でありたい願う気持ち、兄としての自尊心ゆえに。
犬夜叉は、最後の最後で、「兄」という呼称を受け入れることができないだけなのだ。心の中では、かつての経緯(いきさつ)はどうあれ、今はもう唯一無二の存在として互いに認め合いもする永遠のライバルでありたい。その一方で、犬夜叉が殺生丸に一歩近づいたと思えば、殺生丸もまた一歩先へと進み、犬夜叉は再び殺生丸の背中を追いかけることとなる。
犬夜叉にとっての殺生丸とは、永遠の指標。それが、彼ら兄弟にとっての、程よく収まった今の互いの位置付けなのだろう。敬意と共感、そして信頼。その一方で、いつの時も決して消えることがない競争心。そんな男心の機微なんてものが、真の意味で、女であるかごめに分かるはずがない。だからこそ、その思いが説明しきれないもどかしさがあるのだった。殺生丸を尊敬していると、たとえ、心に思っていたとしても言葉にして口にできないように。
「わたしね、殺生丸のことを『お義兄さん』って呼ぶとね、ちょっと嬉しくなるの」
かごめは犬夜叉を見上げながら、花開くような可憐な笑顔を見せた。それは、犬夜叉が三年の間、もう一度見たいとひたすら求めていた笑顔だ。
「嬉しくなる? あいつをそう呼ぶのがか?」
犬夜叉はかごめの笑顔をもっと見ていたいと思う。一方で、自分ではない男のことでかごめが悦ぶことが、なんとも腹立だしくあった。たとえそこに、異性への愛情どころか感情なんてものが、これっぽっちもないと分かり切っていても。誰かに筋金の入りの焼きもち焼きと揶揄されようと、笑わば笑え、それが悪いかと開き直りたくなる気持ちだった。
「うん。あのね、殺生丸のことを『お義兄さん』って呼ぶってことは、もうじきわたしが犬夜叉のお嫁さんになるんだって、改めてそう思えて、なんかすっごく幸せな気持ちになるの。犬夜叉がこうやってぎゅっと抱きしめてくれてるのと同じくらい」
かごめの極上の笑みで、犬夜叉はぽろりと自制心を落としそうになる。陥落まではもう一歩だ。
「かごめ」
犬夜叉は返事をする代わりに、かごめをぎゅっと抱きしめると、その名を呼んだ。かごめはずるいと、犬夜叉は心底思う。どうしてこんなにも自分を喜ばせる言葉がするりと出てくるのかと。腕の中にいつまでもかごめを閉じ込めておきたいと思う。そんな愛しさで溢れんばかりの想いを向ける娘が、己を愛しく思っていてくれる。そんな幸福感で犬夜叉はまた胸が熱くなる。
「ねえ、殺生丸のことを、『お義兄さん』って呼んでもいいでしょ?」
かごめは、犬夜叉に抱きしめられたことに、名を呼ばれことに、彼の答えは「諾」なのだと受け取った。
「……やっぱり、ヤだ」
犬夜叉の眉間に、再び皺が寄った。大人げなさ、そういう意味では、犬夜叉は相も変わらず進歩のない男だった。
「もう、犬夜叉ったら」
かごめは、犬夜叉の胸をどんと押して自由を取り戻すと、口をとがらせた。そして、肩をすぼめ、脱力する。闘いの場では、どれほど大胆で、果敢で、男らしくあるだろう犬夜叉。その一方で、日常においては、どれほど優しく、思いやり深く、正直で、素直で、……と、多分に惚れた相手への欲目も溢れんばかりにあるにはあったけれど、かごめはそんな犬夜叉が好きなのだ。だからこそ、犬夜叉のこんな部分の了見の狭さは相変わらずだと、かごめはため息が出る。もっとも、それも犬夜叉らしさなのであるけれど。
犬夜叉は、小首を傾け、口元にうっすらと笑みを湛えながら、静かに語る。
「今は、あいつのこと、そんなに嫌いじゃねえ。今じゃ、それなりに認めてもいる。だけど、まだ気持ちに整理がつかねえんだ」
それが、犬夜叉の正直な思いであった。
今はまだ受け止めきれない。それでも、かごめとともにあったあの日々が、犬夜叉と殺生丸の関係を確かに変えた。今は、それだけで十分だと犬夜叉には思えるのだ。いつの日にか、かごめが願う通り、その事実をすんなりと受け止め、受け入れる時が来るのかもしれない。ただ、それは今ではない。それだけの話だった。少なくとも、眉間に皺を寄せて、「ヤな響きだった」と口にして不貞腐れて済ませるまでに、その事実を受け止めらるようになったのだ。以前であれば、反射的に身を強張らせていたことが嘘のように。
「じゃあ、祝言あげたらね」
かごめも負けてはいない。いつか、という可能性があるのならば、そのいつかのために、今できる一歩を踏み出す。それがかごめだった。
「それも、やっぱりヤだ」
今の自分には無理なのだと、犬夜叉は先ほどと同じ言葉を返す。それでも、きっといつか、かごめが繰り返し繰り返し口にするその言葉を、きっと自分も自然に受け入れ、返事を返すようになっているのだろうと、心の中で密かに思う。かごめのそんな粘り強さに、己のひねくれた心がどれほど癒され、生きることは楽しいことなのだと思うようになったか。
犬夜叉は確信していた。いつか、かごめに全面的に平伏している自分を。それでも、今現在の自分の気持ちも守りたいと、あくまで対抗する犬夜叉だった。
自分を大切にしてほしい。――これは、かつて、かごめが犬夜叉に願った言葉だ。
「あんたって、そういうとこ、すっごく我がままだよね」
「けっ、悪かったな」
「まあいいか。犬夜叉が犬夜叉らしいまんまだったって思っとけば、それでいいか」
「なんか、すっげー馬鹿にされた気がするぞ」
「気にしない、気にしない」
「何だと? おいこら!」
先ほどまでの甘い雰囲気はどこへやら。それでも、素直な自分のままでいられる。犬夜叉にとっても、かごめにとっても、それもまた心地良い時間であり、空間でもあった。こんな日々を過ごすために、彼らは互いを求め合ったのだから。
春の暖かな日差しが柔らかく降り注ぐ、まどろむにも仕事に精を出すにも心地の良い昼下がり。一つの話題に一応のキリが付くと、かごめは再び薬草摘みを再開した。犬夜叉はかごめの傍らにごろんと寝転ぶと、ぼんやりと空を眺めて過ごしていた。二人で同じ時を過ごす。それだけで、犬夜叉もかごめも心が浮き立つようだった。
「そういえば、りんちゃんってば大きくなったわよね。背もぐっと伸びて。ううん、それ以上に見違えちゃったわ。三年って、やっぱり、すごいわね」
手を休めることもなく、かごめは新たな話題を犬夜叉に投げかけた。
「確かに、あいつもでかくなった。といっても、まだまだガキだけどな」
三年という年月の流れは、この時代にいなかったかごめにとって、変わらぬモノもあった一方で、思っていた以上に変わっていたモノも多かった。前者が犬夜叉をはじめとする年長の者たちで、後者が弥勒と珊瑚の間に生まれた子どもたちや、当時はまだ幼子だったりん。もちろん、犬夜叉も、弥勒も、珊瑚も、三年前と比べれば、大人としての落ち着きを身につけ、より凛々しく、より逞しく、より美しくなっていた。けれど、三年前にはまだこの世に存在すらしていなかった子らを除けば、何よりも成長期真っ盛りであるりんの、子どもから娘への変化は目を見張るようだった。
「ねえ、もし、りんちゃんが殺生丸と一緒になったら、あんた、どうする?」
かごめは犬夜叉に何気なく問いかけた。
「はあ? それって、どういう意味だ」
平素が鈍いのが犬夜叉だ。
一緒になる。――その言葉の意味が分からぬほど犬夜叉も朴念仁ではない。何よりそれは、犬夜叉自身がかごめに向けて乞うた言葉だ。先ほどもその意味で口にしたばかり。ただ、犬夜叉は、それが殺生丸とりんの間に起こりうる可能性があるとは、これっぽちも思っていなかった。
「殺生丸とりんちゃんが結婚したらってこと」
かごめは、にっこりと笑いながら言い直す。
「あいつとりんが? そんなこと、あるわけねえだろ」
犬夜叉は呆れたように否定する。
「あら、どうしてよ。あんた、言ってたじゃない。りんちゃんが村に残るか、殺生丸と一緒に行くか。どちらでも選べるようにってことで、今は村に預けられてるんだって」
「人里に戻す訓練だろ。まあ、確かに、りんはあいつにくっついて行くかもしれねえ。でも、あいつ、ガキだぜ? それに、あの殺生丸だぜ? りんがあいつにくっついて行くにしても、おまえ、よくもそんな突拍子もねえことを考え付くな」
犬夜叉にとって、りんはいつまでもガキのままで、一方で、殺生丸がなぜか大切に庇護している、殺生丸にとっての特別な存在だった。経緯がどうであれ、それが犬夜叉にとってどれほど不可解なものであれ、殺生丸がりんを守るべき者と捉えていることは理解している。殺生丸のりんへの気持ちを父兄愛のようなものだと捉えると、犬夜叉にもそれなりに納得が行く。もちろん、りんが殺生丸のことを神のごとく尊敬し、慕っていることも知っている。そのこともまた、殺生丸の力を知るからこそ、犬夜叉も素直に納得できる。だが、そこに、犬夜叉とかごめが育くんだような、男として、女として、互いを乞うような情愛については、その可能性すら想像できないでいた。なによりも、りんがいくら殺生丸にとって特別な存在だとはいえ、りんは人間だからこそ。
「何、言ってるのよ。確かに三年前のりんちゃんは子どもだったけど、三年経って、ずいぶん女の子らしく綺麗になってたわ。こっちだと、あと二、三年もしたらお年頃って年齢なんでしょ。それに、あんたの話だと、お義兄さんときたら、村に預けたっていうくせして、相変わらずりんちゃんに会いにやって来てるんでしょ?」
かごめは、さり気に「お義兄さん」という呼称を織り交ぜ、犬夜叉に問いかけた。
「ああ、そういえば、あいつときたら人間嫌いのくせして、村にちょくちょくやって来やがるな。酔狂なやつだぜ。おまけにりんに手土産を持ってくることもけっこうあるみたいだぜ」
犬夜叉にとって、殺生丸の訪問は、ある意味、過保護な父兄の行為に見えた。そして、内容が内容だけに、かごめがしれっと挿入した、先ほどあれだけ不快を示した言葉への注意は、まったくと言っていいほど向いてはいなかった。
「うっわー、すっごくマメなのね」
かごめは、殺生丸がりんに土産を手渡す場面を想像して、興奮する。頬を赤らめ、照れたように、まるで自分が目の前の犬夜叉から花でも贈られたかのように、その嬉しさにドキドキもして。どちらかといえば、そちらの方が現実として、ほとんどないのだけれど。
「聞いた話じゃ、食い物だけじゃなく、櫛とか、着物とかもな。楓ばばあも、呆れてやがったぜ。小屋が狭くなるってな」
まるで、鬼の首でも取ったかのように、犬夜叉の目がらんらんと輝く。殺生丸のらしくない行為をあげつらうことは面白くも楽しい。
「お義兄さんたら、りんちゃんのこと、本当に大切に思ってるんだ」
かごめは、仲睦まじい二人を心に描いて、嬉しそうに答える。
「けっ、あいつが世間知らずで、ついでにりんを甘やかしてるの間違いだろ。村娘に、上等の衣(きぬ)なんて、いつ着る機会があると思ってやがんだか」
そもそも、惚れた女どころか、骨抜きとまで揶揄される傍らの許嫁相手にさえ、何かを贈る行為とあまり縁のない犬夜叉だ。もっとも、そんなことで拗ねるかごめではない。だからこそ、贈り物が女、子どもをどれほど喜ばせるか、また、場合によっては想いの深さを量る物差しになるなどとは、犬夜叉に分かるはずもない。そんなことよりも、自分以外の誰か他の者の話であっても、かごめが贈り物の話を楽しそうに話すことが、妙にしゃくに触る。犬夜叉自身は気付いていないけれど、それは焼きもちゆえ。
「あら、お義兄さんは、りんちゃんをひとりの女の子としてとても大切に思ってるのよ。それでなきゃ、さっき、あんたが例にあげたような贈り物なんてしないわよ。まあ、女の子にとって、何を貰ったかなんて、本当はどうでもいいのよね。好きな人がくれるものならば、役に立とうが立つまいが。自分のためにっていう気持ちが一番なんだから。もう、お義兄さんたら、全然手放す気なんてないじゃない」
かごめは、確信を持って二人の仲について言及した。
「冗談だろ?」
がばりと身を起こすと、犬夜叉は目を大きく見開いてかごめに問い返す。
「冗談なものですか。りんちゃんがもうちょっと大きくなったら、お義兄さん、絶対、求婚するわよ」
かごめにとっては、その可能性が見えていない犬夜叉の方が不思議に思える。
「そんなこと、ありえねえだろ。そもそも、りんは人間だ。で、殺生丸は人間嫌いなんだぜ」
朴念仁、ここに極まれり。ただ、犬夜叉にとっては、それこそが道理であった。自分が殺生丸にどのように扱われて来たか、その長きに渡る侮蔑の日々が深く心に刻み込まれていた。ここ数年の、二人の関係の変化を認めはするものの、そこから一歩踏み込んで、一生の伴侶とか、魂の片割れとか、そんな唯一無二とも思える相手として、殺生丸が人間を選ぶ、その選択枝があることが信じられなかった。
「お義兄さんも、人間だとか、半妖だとか、妖怪だとかって、今はもう、あまり気にしていないと思うんだけどな」
「……」
「最近は、犬夜叉もお義兄さんと刀を交えるようなことはしていないんでしょ?」
「……」
かごめは犬夜叉の前に、事実を一つずつ積み上げて行く。
「お義兄さんも変わったのよ。いい証拠に、犬夜叉のこともちゃんと認めているし、わたしのことも守ってくれたわ。犬夜叉だって、お義兄さんのこと、認めてるでしょ?」
「ちょっと待て。それって、いつの話だ」
犬夜叉は、不愉快そうに尋ねた。
「いつ、って……」
唐突な問いかけに、かごめは直ぐに何を尋ねられているのか思い当たらなかった。
「あいつが、いつ、おまえを守ってたっていうんだ」
犬夜叉自身も今では確かに殺生丸を認めている。けれど、かごめを守ることは自分の役目と自負もしていた。だからこそ、いつの話なのだと、自分には記憶がないゆえに気にかかる。
「それね。三年前のことよ。奈落との最後の戦いのとき。犬夜叉と別れ別れになっていた間、ずっと、お義兄さんがわたしを守っていてくれたの。犬夜叉と再会できるまで、ずっと」
「えっ、あいつが?」
「うん。多分、犬夜叉の代わりに守ってくれていたんだと思うわ」
「……」
「だからね、お義兄さんも変わったのよ」
犬夜叉にとって、かごめの言葉は衝撃以外の何モノでもなかった。
「お義兄さんにとって、今はもう、人間も半妖も妖怪も、大して気にならなくなってるんだと思うわ。ね、犬夜叉もそうだと思い当たることあるでしょ? そういう犬夜叉だって、今は気にしてないでしょ?」
「……」
「犬夜叉が変わったように、お義兄さんも変わったのよ。なんだか嬉しい。犬夜叉がお義兄さんに認められてるって」
「かごめ……」
変わる。それを素直に受け止めるかごめが犬夜叉には眩しく見えた。のびやかに、大らかに、すべてを優しく包み込むような魂の大きさに、魅せられる。
「で、りんちゃんがもうちょっと大きくなったら、お義兄さんはりんちゃんに、きっと求婚すると思う。だから、将来、りんちゃんはあんたのお兄さんのお嫁さん。つまり、りんちゃんがあんたのお義姉さんになるわけね。なんか、そういうのっていいわよね。おめでたいじゃない」
かごめは嬉しそうに笑う。
「りんのやつが、おれの……」
「うん、お義姉さん」
かごめが楽しげに合いの手を入れる。
「りんのやつが……」
言葉を真似する鳥が何度も同じ言葉を繰り返すように、犬夜叉は同じ言葉を繰り返す。
「そうよ、りんちゃんはあんたの未来のお義姉さん。わたしにとっても、りんちゃんは未来のお義姉さん。うっわーっ、なんか照れちゃうな」
かごめの興奮は、犬夜叉を放置してずんずん大きくなっていく。
「りんのやつが、おれの……」
壊れたからくり人形が飽きることなく同じ動作を繰り返すように、犬夜叉はまたしても同じ言葉を繰り返す。
「でも、お義兄さんの未来のお嫁さん候補は、今のところ、どう考えてみても、りんちゃんがぶっちぎりの一番よね。だって、犬夜叉から話を聞いた限りじゃ、お義兄さんてばりんちゃんしか見てないもん。それとも、他に誰かいる?」
かごめは犬夜叉の顔をちらりと伺うと、先ほどまで休めていた手を再び薬草へと伸ばす。今を盛りにと萌え出ずるヨモギや、カタクリ、オオバコへと。薬草篭がいっぱいになるにはまだ遠い。
犬夜叉は半分涙目になっていた。
「……」
犬夜叉には言い返せる答えなど何もなかった。それこそが、今、他の可能性の選択肢がない証拠でもあり、認めたくない真実だった。
「自分よりも年下の女の子を『お義姉さん』って呼ぶのって、やっぱり、ちょっと恥かしいわよね。その点、お義兄さんの殺生丸は確実に犬夜叉より年上だから、わたしも『お義兄さん』って呼びやすいわ」
かごめは、瞳をきらきらとさせながら、未来の義兄夫婦の一対を思い浮かべていた。どんなプロポーズをするのだろうか? それはいつのことだろうか? 犬夜叉以上に言葉少なな彼ならば、りんの名を呼ぶだけではないだろうか、など妄想に終わりはない。
「りんが、おれの……」
薬草摘みに精を出すかごめの隣りで、犬夜叉はため息とともに繰り返す。
「ねえ、犬夜叉。やっぱり、りんちゃんが相手だと『お義姉さん』って、呼びにくい?」
かごめはかごめの感性で犬夜叉に尋ねる。
「えっ?」
「そうね、犬夜叉も、まずはお義兄さんの方で練習してみたら? わたしの前だけでもいいから」
それは、既に殺生丸を“義兄”と捉えるかごめならではの感覚だった。
「……」
「でも、犬夜叉に『お兄様』や『兄上様』ってのは最初っから無理よね。『お兄さん』ってのもちょっと違うか。そうねえ、『兄上』ってのはどうかしら? それもやっぱり犬夜叉の柄じゃないか」
「……」
果たして、二人の間に会話は成り立っているのだろうか。それ以前に、犬夜叉がいつ、殺生丸を兄だと受け入れたというのだろうか。まだだ。
「えーっと、そうねぇ。犬夜叉なら、『兄貴』とか、『兄さん』あたりなんかがいいんじゃないかしら。ねっ、どう思う?」
「……」
果たして、かごめの問いに対する犬夜叉の答えはない。犬夜叉の心の許容量は今にも溢れんばかりか、結界寸前だった。いや、既に壊れていた。今の犬夜叉にとって、りんが未来の義姉という可能性だけでなく、それ以前の段階で、殺生丸を素直に兄と受け入れること自体が心の難題であった。犬夜叉の心は狭い。かつて、幼い草太でさえ言っていたではないか。男とは、かくもデリケートな生き物なのだ。人間であろうと、半妖であろうと、それは変わりなく。
「こんなものかな?」
かごめは篭の中の収穫品を満足げに眺めた。
「……」
犬夜叉は、口を半開きにしたまま動かない。
「犬夜叉、お兄さんに、お義姉さんよ」
かごめはにっこり微笑むと、追い打ちをかけるように、――いや、改めて引導を渡すかのようにきっぱりと宣言する。
「お義兄さんたちが結婚するまでには、覚悟を決めなさいね」
許嫁の背中を元気良くポンと叩いてエールを送るかごめの顔には、朗らかな笑みが零れる。犬夜叉はかごめが口にする「お義兄さん」という呼称に、いつの間にか、眉をひそめることさえ忘れていた。犬夜叉にとって、今は、それ以上の難題が降りかかってきていたゆえに。
それは、春の麗らかな野辺でのひとコマだった。
ひとは変わって行くのだ。
その願いも。
たったひとつ見つけたその愛を、
より強く、より深く、より幸せに育むべく、未来を見つめて。
ひとは変えて行くのだ。
その関係を。
ひとつの出会いをきっかけに、
より新しく、よりしなやかに、より幸せになるべく、先(さき)を見据えて。
愛しい。
その想い、ただ一つを胸に抱いて。
あなたに逢いたい。
かごめは、その想い一つで、時を超えた。
おまえに逢いたい。
犬夜叉は、その想い一つで、差し出されたその手を取った。
変わり行く未来には、いったい何があるのだろう。
少しずつ変わっていく明日に、より幸せがあるのだと、
少しずつ変えていく明日を、より幸せにするのだと。
ただ、それだけを心に信じて。
- 了 -
原作最終話「明日」より
「朔の夜・黎明の朝」 開設六周年記念作品 in 2010.03.01
あとがき (click開閉)