言霊
「かごめ……か?」
「犬夜叉、その顔は何よ。ちょっと私が井戸の向こうに帰っているうちに、わたしのこと忘れちゃったとか言うわけ?」
「……馬鹿野郎、そんなことあるか。おまえこそ、寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。それより、遅かったじゃねえか。今まで何してやがったんだ」
「ごめんね。でも、仕方がないじゃない。向こうで学校だってあるんだし」
「けっ!」
「でも、犬夜叉に会えなくて寂しかった。犬夜叉は?」
「かごめ……」
今日もここで目が覚めた。
半妖のおれにとって、眠りは、弥勒や珊瑚、楓ばばあのような人間や、妖怪とはいえ七宝みたいなガキほどには必要なものじゃない。それでも、おれは今日もまたほんのわずかではあるけれど、そこかしこに蔦が絡まった古井戸の井桁に組まれた木枠に背を預け、しばしの眠りについたのだった。日々の営みによって溜まる疲労という名の澱(おり)を癒すべく。それ以上に、夢の中だけにある至福を追い、夢から覚めた後に込み上げてくる愛しさを抱きしめるために、おれは目を閉じ、まどろんだ。一方で、結局それは現実のものではなく夢に過ぎないのだということを、改めて突きつける侘しさと虚しさをもたらすことも知っていた。
それでも、夢でだけ叶うかごめとの逢瀬を、おれは求めずにはいられなかった。かつて、いつの時もおれの傍らにあった、今はもうないあの笑顔に再び出逢うために、忘れぬために、またいつかと希望を絶やさぬために。
「どうして、おれは……」
戻り切らぬ意識を未だ醒め切らぬ夢の中に置いたまま、夢の中で最後に言いかけた自分の言葉の続きを心の中で反芻する。なぜおれは、夢の中でさえ、その続きを言ってやれないのだろう。そんな自分の不甲斐なさが嫌になった。もし伝えられていれば、夢の中のかごめはおれに嬉しそうな笑みを浮かべてくれたことだろう。それとも、照れてそっぽを向いただろうか。
目を瞑ればいつだって、もの言わぬ、静かに微笑むかごめの顔がそこにある。未練だ、と自分でも時に思う。執念だと、人に笑われたってかまわないとも思う。それで、再びこの手にかごめの温もりに触れられるのあれば、かごめの声をまたこの耳に捉えることができるのならば、と。
ふと視線を上げると、頭上高く、どこまでも続く暗い空に星が静かに瞬いていた。
「まだ朝には少し間があるか……」
空を仰ぎ、心に思う。
かごめとの突然の別れから、もうじき三年になる。あの日、冥道に飛び込んだおれに四魂の玉は問いかけてきた。あの日のおれの心に、迷いなど何一つなかった。
かごめはおれに会うために生まれてきてくれた。
そしておれも――かごめのために……生まれきた。
真実、そう思えた。たとえおれたちの出会いが四魂の玉によって導かれた運命だったとしても、おれたちが紡いできた絆に四魂の玉は関係ねえ。おれとかごめ、ふたりのものだ。どんなに遠く離ようと、決して消えることはない。おれたちの絆に運命なんて関係ない。
「かごめを愛し、必要としているのはおれだけじゃない」
何かの折に、弥勒にこう語ったことがある。それも、偽りないおれの気持ちだ。あの時、あいつはただ、「そうか」とだけ言った。
あの日、冥道に呑み込まれたかごめを追いかけ、おれも冥道に飛び込んだ。何一つためらうものなんてなかった。冥道の中でおれが聞いたかごめの家族の悲痛な叫びが、今も耳から離れない。そして、かごめと共にあちらの世界に戻った時の、彼らの無上の喜びも決して忘れることなどできない。かごめのおふくろさん、じじぃ、草太。あの家族がかごめを大切に思っていることは、おれと何一つ変わりはないのだ。かごめだって大切に思っている。おれだって、嫌いじゃない。時折会う彼らのくすぐったくなるような優しさには、ひとりに慣れていたおれでさえも、もう暫く味わってみたいような心地良いものがあった。そのくせ、あまりの心地良さに逃げ出したくもなった。
突然かごめの世界から引き戻されたこの世界のあの日の空は、どこまでも続いていた。あの日と同じで、今日見上げる空もどこまでも続いていた。蒼い空と、暗い空と、色こそ違えど、果てなくどこまでも続いていた。
「かごめ……」
知らず、声に出してその名を呼んでいた。
かごめを大切に思っているのは、かごめを愛しているのは、おれだけじゃないことを、おれは知っている。
けれど、おれもかごめを――。
何かがすとんと降りてきた。
どこまでも続く暗い空から降りてきた。
それでいいのだと。
かごめ……。
おれはおまえを愛している。
おれはおまえに逢いたい。
独りよがりだって、それでいいじゃないか。
心が軽くなる。かごめを愛していると言葉にしてみたら……。
だから、おれは決めたんだ。
おれは、どんなことをしたって、おまえに逢いに行くんだ、と。
もう、迷わない。
今日見上げる空は、どこまでも遠く広がっていた。
東の空が白み始める。おれは、久しぶりに日の光を真っ直ぐに見返したように思う。
未練がどうした。執念がどうした。それで願いが叶うのであれば、おれはかまわない。
言葉には言霊が宿るのだと、楓ばばあが言っていた。どういうことだと尋ねたら、おれの首にかけられた念珠の言霊の縛りのように、言葉が想いを縛るのだと楓ばばあは答えた。悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言。強い想いは、たった一言で言い切ることができるほどの強い想いは、それだけで力になるのだと。
逢いたい。
おまえに逢いたい。
おれはおまえに逢いたい。
だから、おれはおまえに逢いに行く。
どんなことがあろうと、おれはおまえの元に辿りつく。
たとえ、この命枯れようと、尽きようと、おれはおまえに逢いに行く。
おまえに逢いたいという、この想い一つだけを携え、おれはおまえに逢いに行く。
願いが力に成るならば、朝に、昼に、夜に、おれは願う。
誓いが力に変わるならば、朝に、昼に、夜に、おれは誓いでおれを縛る。
夢で、現(うつつ)で、おれはおまえをひたすら求め続ける。
いつか、いつか、再びおまえをこの腕に抱きしめる日が来ることを、心に描いて。
けれど、願いを叶える者は神じゃない。
願いを叶える者はおれ自身、叶えるモノはおれの想い。
おれとおまえは時さえ超えて繋がっていると、今も何一つ疑いはしない。
かごめ、おまえが好きだ。
かごめ、おまえを愛している。
この想いが力になるならば、この想い一つだけ抱いておれは叫ぶ。
だけど、
かごめ、おれはおまえを縛るつもりは、決してない。
かごめ、おまえを悲しませるつもりも、決してない。
だから、
どんなに時を擁しても、おれがおまえに逢いに行く。
おまえの時代に、おまえの笑顔におれは逢いに行く。
それが、どれほど遠回りでも、おれはおまえに逢いに行く。
この想いが力となるならば、おまえに逢いたいという想い一つだけを抱いておれは時を超える。
どれほど遠回りでも、おれはおまえに逢いに行く。
たとえ、この命枯れようと、尽きようと、おれはおまえに逢いに行く。
おまえに逢いたいという、この想い一つだけを携え、おれはおまえに逢いに行く。
漆黒を思わせる空の果て、いつ明けるともなく星々が瞬く夜空の未来(さき)にも、白々とした朝の光が必ず宿るように、きっとその時はやって来る。おれとおまえは時を超えて繋がっているのだと信じて。
かごめ、待っていてくれ。
必ず、必ず、おまえに逢いに行く。今はまだ道は見つからないけれど、おれの想いを力に変えて、きっとおまえに逢いに行くから。
だから今は、夢に現(うつつ)に、おまえの笑顔を、声を、思い描く。
願いを力に、誓いを力に、想いをさらに強くして、おまえに逢いに行くために。
かごめ、おまえが好きだ。
かごめ、おまえを愛している。
徐々に白みゆく東の空を見つめ、心の内に佇むおまえに語りかける。
「かごめ」
愛しいひとの名を声に出して呼ぶ。
待っていてくれ。いつか、時の神など蹴散らして、おれはおまえに逢いに行く。
「おれはおまえに逢いに行く」
願いが、誓いが、かごめに再び逢うための力へと変わると信じて、この日最初の光に向かっておれは叫んだ。
夢の中でも、次こそは返そう。
おまえへのこの想い。
- Fin -
初出 2009.12.06 / 改訂 2009.12.15
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