帰る場所
「犬夜叉……」
あの日のままの声で、かごめがおれの名を呼ぶ。
三年ぶりにおれが目にしたかごめは、とても綺麗で眩しかった。
おれはそんなかごめから目が離せない。
春もまだ浅いひんやりとした風がさわりと吹き抜けて行くと、三年前の、あの懐かしい日々のままのかごめの柔らかな髪を巻き上げふわりと舞い踊らせた。
おれを見詰める澄んだ瞳。白い肌に淡く上気した頬。そして、おれの名を呼んだ桜色した艶やかなくちびる。どこも変わっていないようで、その実、かごめはずいぶんと大人びて変わっていた。かごめを形作るその一つ一つがおれの心を捉えて離さない。
「かごめ……」
「犬夜叉……」
「……」
かごめの名を呼ぶ以外、口下手なおれにはかける言葉なんて出て来なかった。
ただじっと見つめるばかりで押し黙ってしまったおれの頬に、かごめが伸ばした指が触れる。
「どうしたの? 大丈夫?」
かごめがおれを心配する。それは、おれがかつて日々の常としてかごめから貰っていた優しさだ。何気ないかごめの言葉がこんなに嬉しいものだったのだと、それがどれほど貴重でおれの心を浮き立たせるものだったのかと、改めて思い出させてくれた。
「かごめだ……」
おれは、おれに触れるかごめの手を、さらにおれの両の手でそっと包み込む。
温かい。――その手に触れるかごめの温かさを、決して幻ではないその消えない存在感をおれは何度も何度も確かめる。かごめが今、ここにいるのだと。
「そうよ、わたし、来たの」
「ああ」
「わたし、犬夜叉に逢いたかったの」
「……おれもだ」
言葉が続かない。いや、言葉になんてできはしないのだ。そう、おれの心にある想いのすべてを言葉にすることなんてできやしない。目の前にいるかごめという存在が、ここに“在る”ということがひたすらに嬉しくてたまらない。
この三年というかごめのいない時を過ごしながら、おれはおれなりに考えていたはずだった。そして、それなりの決意と覚悟を持ったはずだった。
それが、今、我に返ってみれば滑稽としか言いようのない行動をとっていた。
あの時のおれは、それまでの三年で逡巡しながらも得たと思っていた結論を笑えるほどにきれいさっぱりと忘れていた。
どれほど口で自分に言い聞かせてみようと、どれほど理詰めで自分を納得させようと、どれほどその理由を数え上げようと、ただ一度、かごめの匂いを捉えた途端、すべて霧散した。苦笑するどころか、ものの見事にきれいさっぱりと。
あの時、なぜおれは井戸に飛び込まなかっただろうか?
あの時、なぜおれは手を伸ばすことに躊躇わなかったのだろうか?
あの時、なぜおれはおまえの手を握って手繰り寄せてしまったのだろうか?
あの時、なぜ……。
と、おれはおれに向かって自問する。
真実はただ一つ――おれの心がかごめを求めた。
それ以外の答なんて、きっと見つからないだろう。
一瞬の選択を前に、おれはあの日と同じ想いでいっぱいになっていた。
おれは、かごめに会うために生まれてきたんだ。
かごめも、また……。
あの一瞬に、かごめを想うひとたちの顔は浮かばなかった。
おれには、かごめの顔しか浮かばなかった。
愚か者と呼ばれようと、おれは何度も何度も試みた。
おれがおまえに会いに行こうと。
五百年という時さえ超えて、おまえの元に辿り着こうと決めていた。
おまえと、おまえの大切なひとたちを悲しませないために。
済まない。
でも、もう二度と手放せないんだ。
一度失ったはずのかごめを、今、再びこの手に触れてしまったから。
赦してほしい。
あなたたちが愛するかごめを、おれも愛しているから。
かごめも、おれを求めてくれたのだから。
信じてほしい。
きっときっと、大切にする。
これだけは……。
あなたたちに伝える術は、何一つないけれど。
いつの間にか、おれの腕の中にすっぽりと収まっていたかごめは、とても柔らかかった。三年前、いつだっておれの鼻が捉えていた優しい匂いも、今再びここにある。
「ただいま、犬夜叉」
腕の中のかごめがおれにこう言った。甘い吐息と懐かしい声がおれの耳をくすぐる。
「お帰り、かごめ。今までなにしてたんだ……」
万感の想いを込めて、おれはかごめに言葉を返す。そしておれは、かごめをぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね」
ただそれだけを言うと、かごめもおれの背中に回した両の手に力を入れてぎゅっと抱きしめた。
今日からは、おれがかごめにとっての帰る場所。
そしてまた、おれにとっても、かごめ、おまえはただ一つのおれが帰る場所。
明日も、明後日も、その次の日も、おれはおまえにこう告げるんだ。そして、おまえも、おれに同じ言葉を返してくれることだろう。きっと、その顔に柔らかな笑みを浮かべて。
時に「ただいま」、時に「お帰り」と。
かごめ――もう二度と、おまえを離さない。
- 了 -
初出 2009.10.14 / 改訂 2009.11.07
吐夢様「ただいま」より
* 原作最終話「明日」の台詞に近い表現があります。
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