友よ
「行きなさい。私に遠慮は要りません」
「じゃ、悪いけど先に……」
振り向きざまに見せたおまえの顔を思い出すと、私は思わず苦笑が漏れてしまう。
ここは私とおまえが日頃住まう村よりまだ七里はある山の峠道。それまで木々に覆われ閉ざされていた視界がふいに遥かな平原を見渡すように途切れ、遠くに見慣れた村が目に映った瞬間のおまえのあの顔を、私は忘れることができない。
どれほどおまえの心は躍ったことだったろう。この三年、おまえの傍らにいたのは私だった。もちろん、それは常にということではない。たいていの場合、おまえは独り切りだった。それでも、私はおまえの隣で、おまえがどれほどあの方を想い、どれほどあの方の幸せを願い、そして、どれほど己の望みを押し殺してきたかを知っている。
独りになれない昼のうちはどれほど疎ましかったことだろう。
己以外の誰もが未来に向かって歩み出す様をじっと見ていることは。
新しい命が生まれ、時を刻み日々成長していく様を傍らで眺めていることは。
独りきりの夜はどれほど寂しく辛かったことだろう。
満ち行く月に問いかけたのだろうか、欠け行く月は答えてくれたのだろうか。
暗天――月がない夜は何を思って独り過ごしたことだろう。瞬く星と語り合ったのだろうか。
夜のおまえは私には知り得ない。たとえ私がおまえの傍らにいようと、それを確とは知り得ない。
尋ねることなどできはしない。なぜなら、私もおまえ一人を置き去りにし、未来へと向かって歩き出した者だったから。どうして、問うことなどできるのだろう。おまえ一人を置き去りした私ゆえに。
「朔がどうした」
と、おまえはまっすぐな目をして私に言った。それはあの方ゆえに覚えた言葉。あの方ゆえに受け止められた決意。
けれど、あの方はこの世にはない。それはどれほど辛いことだったろう。半身を得た私には想像はできたとしても決して実感などできはしないのだから。
私は知っている。おまえがどれほど優しく、心強い男であるかを。おまえひとりにしか語っていない話がある。おまえは私がこの命さえも預けることができる男。
だからこそ、この世にただひとりのかけがえのない友だからこそ、きっといつかと心ひそかに願わずにはいられなかった。それがおまえの真の願いであっても、おまえが心の奥底に封印したものだったから。
「さて、私もそろそろまいりますか」
愛しい妻には梅を彫りこんだ柘植の櫛を。生まれたばかりの息子にはカラカラと軽やかな音を紡いでは回る色鮮やかな風車を。手土産と袂にずしりと重い仕事の対価として得た金子(きんす)を手に取り確かめると、私は再びゆるゆると歩み出す。そして、先行く友が初めて選んだかの土産を思い浮かべ、私は別れ際のおまえを思い出す。振り向きざまに見せたおまえの顔に、私は思わず苦笑が漏れてしまう。
私はおまえのそんな顔がずっと見たかった。
それはなんとも不敵で、自信に満ち溢れた幸せがにじむ笑み。おまえにあんな顔をさせられる者はこの世にただ一人。おまえの腕に想い一つで飛び込んで来られたあの方のみ。
あの日を境におまえの止まっていた時が、未来へと向かって再び動き始めた。
「幸せになりなさい、犬夜叉。おまえの愛するあの方とともに」
今はもう、その背も見えぬ韋駄天の友へと心のうちで呼び掛ける。
- 了 -
初出 2009.09.08 / 改訂 2009.09.11 (「我が友よ」から改題)
ゆり様「おめでとう」より
あとがき (click開閉)