あの日の桜
ずいっと目の前に付き出されたのは、無数の蕾が今にもほころび、花開きそうな桜のひと枝。もっとも、ひと枝と呼ぶには、実際のところ、かなり大きい。
「うん? どうしたのよ、これ」
わたしはその枝を受け取るというよりもひと抱かえにすると、目の前の犬夜叉を振り仰ぎ尋ねた。
「おまえ、これ、好きだったろ。あん時も、こいつを綺麗だ、綺麗だって、すっげえはしゃいでいたじゃねえか」
そう言うと、犬夜叉はいかにも照れくさそうに頬をぽりぽりと掻いた。
犬夜叉が言うところの「あん時」というのは、わたしと犬夜叉が二人で旅を始めたばかりの頃のこと。まだ、弥勒様や珊瑚ちゃん、それどころか七宝ちゃんにさえ出会う前の話だ。
わたしがこちらの世界に初めて来て、犬夜叉と出会った三年前の春。突然、井戸に引き込まれ、元の世界に帰る術が見つからない間に、あちらでの桜の季節は終わっていた。もちろん、こちらにいた間は、そのことに気付きもしなかった。正直な話、気力を振り絞って生き延びるだけでも精いっぱいで、気を緩めたら恐怖に足が震え、きっと泣き叫ぶことしかできなかっただろう。花のことなど、ほんの些細なことでしかなかった。でも、後から振り返ってみれば、百足上揩ノ井戸に引き込まれたのは、あちらではちょうど今にも咲き出そうとしていた時期で、やっとのことで戻った時には、うちの神社の桜もとうに葉桜へと変わっていた。もっとも、あの頃はたとえ目の前で桜が咲いていたとしても、楽しむどころでなかったのだけれど。
そんなある日、思いがけず、満開の桜に出遭った。それは九十九の蝦蟇に乗り移られた若様を助けた城の近くの街道でのこと。ちょうど花が見ごろを迎えていた。それは大きな木で、枝先が枝垂れるほどにたわわに花を付けていて、その木の下にいると花に埋もれたように囲まれた。あちらの世界で良く見知ったソメイヨシノとは違って、花色はもっと艶やかで濃い。そして、八重に重なった花が鞠のように房を作っていた。
あの時のわたしは、木の下にピクニックシートを敷いて、犬夜叉がとっとと先に進もうと訴えるのを言霊まで使って無理やり引き留め、暫しの花見をしたのだった。
ずいぶん浮かれもした。それでも、あの日のあの時間が、ほんの少しだけれど、犬夜叉との距離だけでなく、わたしとこの時代を近づけもしたのだった。
桜――同じ国にいるのだと。この国の、この土地の呼び名が違っていても、ここは自分が生まれた国「日本」と、時を越えて同じ場所に立っているのだ、と。そして、隣りに犬夜叉がいた。
だから、不思議と何も心配しなくてもよいのだと思った。
「あの時のこと、覚えていてくれたんだ」
花の種こそ違えど、いずれも桜。あの日、感じたことも同じこと。
「ああ」
犬夜叉はほんのかすかにだけれど、口元を緩めて笑った。それはきっと、わたしが今、喜んでいるからだろう。
犬夜叉って、こういう人なのだ。ほんの些細なこともちゃんと覚えていてくれる。
あの日、わたしは本当に嬉しかった。花のこともそうだけど、犬夜叉と気持ちが少し近づくことができたと思ったことが何よりも。そして今日、新たにくれた彼の優しさに、わたしは胸が熱くなる。嬉しくってたまらなくなる。そして、幸せでいっぱいになる。
「ところでさ、犬夜叉。こんな言葉、知ってる? 桜折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿」
わたしにプレゼントをと思ってくれたこと。そのこと自体はとても嬉しい。それでも、手折る桜は傷付くのだ。何も知らずにいたのであれば、それも仕方がない。確か、あの時もわたしは同じ台詞を口にしたように思うのだ。
犬夜叉の馬鹿! 桜は折っちゃ駄目なのよ。
知るか。おめえが欲しがったんじゃねえか。
「ああ、覚えてる。 だから、きちんと切ってきた」
「はあ? どう違うのよ」
犬夜叉からは、はぐらかされたような、禅問答のような答えが返ってきた。
「あんな、今日出かけた先の城の庭師が言うには、桜の小枝はあまり折っちゃいけねえが、大枝を根元から落とすのは構わねえんだと」
「大枝はいいの?」
「そうらしい。細かいことはよく分かんねけど、簡単に言うと、そういうことらしい。だから、大枝を貰ってきた」
「はあっ、そうなんだ」
犬夜叉は覚えていてくれた。わたしが怒りながらも言ったあのひと言も、ちゃんと覚えていてくれた。
ひとり、思い出に浸っていると、犬夜叉がこんなことを言う。
「ほんとは丸ごと持って来ようかと思ったんだ。そこんとこに植えてやろうかと思って。そうすりゃ毎年見られるだろ」
犬夜叉は戸口の柱に背を持たせかけ、腕を組んだまま首だけ振り返ると、おもむろに片手を上げると、くいっと指を立て門先を指し示す。
「またにしろって言われた。今は時期が悪いから、まずは代わりにこれを持ってけって」
「……」
桜の大枝に抱きついたまま、わたしはしばし犬夜叉に見とれていたように思う。目が潤んで、なんだか視界がぼやけて、犬夜叉の顔がよく見えない。
「おい、どうした?」
返事をしないわたしを心配したのか、犬夜叉が柱から背を離すと、わたしを覗き込んでこう尋ねる。
「犬夜叉、ありがとう。嬉しい」
ひとは嬉しい時も泣きたくなるの。
わたしは犬夜叉にこうして何度泣かされるのだろう。
「良かったぜ。で、こいつどうしたい? いったん切っちまった枝だから、小枝を折るのもかまわねえぜ」
再び、桜の大枝をわたしから受け取ると、犬夜叉はその処遇を尋ねる。
「そうね、大きな壷か何かに水でも入れて、一時の桜を楽しんでみたいな。あと、ひと枝は家の中に飾りたいわ」
わたしは犬夜叉に、にっこりと笑顔で返す。
「よし」
屈託なくそう応えた犬夜叉の顔は晴々として、わたしの目にとても眩しかった。
さくら さくら、
二人で見上げた あの日の さくら
今、ふたたびに ほころぶ 薄紅の花手鞠
きみの笑顔が 花陰に揺れる
- Fin -
初出 2009.04.14 / 改訂 2010.05.14
blog*日記「宵の口から…」初出
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