唇に浮ぶその微笑
天下の往来を足早に歩く二人の年若い娘を、男たちは、いや女、子どもも我知らず目で追いかける。客観的に見て、趣は異なるものの二人の娘はいずれもお世辞抜きで見目麗しい。芳しく匂い始めた花と例えたくなる年の頃ということも合わせて、男たちの目には甲乙つけがたい花と映る。そんな美女と呼ぶに相応しい二人に、繁華な「街」の男どもが姿を目で追い、話し声に耳を澄ますばかりで誰一人として声をかけないことは、ある意味奇妙な話であった。
「大丈夫よ。二人とも情報の真否を確認しに行っただけじゃない。きっと直ぐに戻ってくるわよ」
「多分ね。それでもやっぱり法師様のことが心配でならないんだ」
「二人とも強いから心配要らないってば」
「そりゃあ、二人とも強いことは強いけどさ……」
娘たちが先程より話題にしている内容は、今は別行動をしているらしい腕っ節にも自信がある連れについてである。
それが、「街」の男たちが彼女たちに声をかけない理由の一つだった。男連れであるということ。彼らを信頼するなり心配する話の内容からも、彼女たちの想いがどこにあるのかはおのずと察することができる。
それにしてもである。
異性を気に掛ける。それも美女となればそこはそれ。その場の空気を読まず、墓穴覚悟で言い寄って見事無残な屍を晒すも良しとするあっぱれな者や、いや自分ばかりは醜態を晒すはずがないと錯覚するおめでたい輩の存在も、この手の「街」では似つかわしい。それなのに誰一人として実行に移す者がいないといことが奇異でもあった。
ただ、躊躇する理由が一つではなくいくつも重なっているということが、ひたすら目で追うだけという状況を作り出していた。
奇妙の数々。男たちはそれぞれが心の中で数え上げていく。
一つは、ある動物の語尾に「又(また)」という一文字を付け足してみたいという衝動に駆られる二股の尾を持つ異様を持つ獣の存在。それは片方の娘の肩に乗って、愛らしくみゃうと鳴いていた。
一つは、もう一人の娘に抱かれた幼子。その幼子は稲穂を思わす黄金色をした髪の色、空の青さを映した瞳をしている。さらには腰のあたりで時折揺れる髪と同じ色彩のふわふわとした毛玉はどうやらその幼子の尻尾らしい。尻尾のある子ども、愛らしいには違いはないがどこか素直にそう呼ぶに難しい異質な存在である。不意に覗いた足が何やら犬か狐の後ろ足のようにも見える。
もう一つは、そんな幼子を抱く娘自身も。良家の出らしい立ち居振る舞い、上品さ、優しさをも兼ね備えているのにである。この時代の風俗として身にまとう衣装は比較的緩やかなものである。それを踏まえても、娘がその身にまとう衣装は南蛮由来のものなのか奇妙奇天烈というより他ならない。素足をここまであからさまにさらけ出している姿は、その短過ぎる袴の内をあえて想像させるように仕向け男を誘っているようでもあった。その一方で、華奢な娘が持つには不似合いともいえる大きな弓を携えていた。それは狩猟用のものではなく神霊的な厳かさを宿しており、その清らかさが娘に大そう似つかわくもあり、それゆえに違和感を覚える。
さらにもう一つ。背の高い娘の背に背負われた大きな“く”の字型をした大そう重そうな荷物の存在。無双の大男の得物、武器というのならばまだしも納得できるのであるが、明らかにその娘のものと思われる女物の装飾が施してあった。村娘の身なりで背丈に近い得物をほぼ唯一の荷物として辺りがあまりに異質である。
そんな娘たちの連れの男たちはいったい何を探りに行ったのか。そして、どんな男たちが連れなのか。異質さが無言の障壁となってはいたが、それでも娘たちには目を離せない華があり好奇心を誘う。触れなければ事もなし。見守る誰の目にも興味は尽きなかった。もっとも、当の本人たちは奇異を見咎める視線を気にもかけず、相変らず会話に華を咲かせていた。
「珊瑚ちゃんてば、いったいいつからそんなに心配性になったの?」
弓を持つ娘、かごめが尋ねる。
「あたしが心配してるのは、ここが大きな街だということさ」
もうひとりの巨大な得物を背負った娘、珊瑚が苦笑交じりに答えを返す。
「えっ? 大きいと人もいっぱいいるから、情報だって多そうじゃない」
かごめは素直に問いかける。
「それは確かにね。でも問題はそんなことじゃないんだ」
珊瑚は眉間にしわを寄せて呟いた。
「問題?」
「法師様が助平心を出さないかってことよ!」
顔を真っ赤にして、大きな声を出した珊瑚であった。
「確かに、犬夜叉はそういう意味じゃこれっぽっちも心配しなくていいけどね」
かごめは苦笑した。
聞き耳を立てていた者たちはある意味で安堵を覚え、別の意味で落胆もした。
彼女らの異質さがたわいない女心に一気に薄れていくととも、今はその場にいない連れの男たちが、娘たちそれぞれの想い人でもある事実ゆえに。珊瑚と呼ばれる娘は、僧籍にある法師を慕い、かごめと呼ばれる娘はもう一人を慕う。そして、件(くだん)の法師は女好きだということ。街の男たちの多くはその後の展開を楽しみに聞き耳の感度を上げることとした。
ここは街。小間物屋や旅籠もある京の都と東国とを結ぶ街道沿いのそれなりに人々が集い栄えている少し大きめな街。当然のことながら「花街」も抱えている。それなりに「色」を求めたり、享楽一辺倒ではない「をかし」を求める場所でもあった。件の一行はいろいろな意味で興味をそそる。
「でも、犬夜叉も一緒だから大丈夫じゃない? きっと大丈夫よ。きっと多分……」
かごめの声は徐々に小さくなっていく。
「かごめちゃん。声がだんだん小さくなってるんだけどさ。本当にそうだって自信を持って断言できる?」
珊瑚自身、それを口にする分だけ逆に脱力感を覚えていた。それでも、少しでも心を落ち着かせるために効果がないことを承知で聞いて確かめたくもなる。それが女心としたものだ。
「……た、多分。きっとね」
すまなそうに苦笑いを浮かべながら、それ以上は言いようもないかごめであった。つまりは、“弥勒”と呼ばれる法師は男としてそういった意味での少しばかり信頼がないのであった。
「のう、珊瑚。おらも弥勒は信用できんと思うぞ。犬夜叉のやつはそんな甲斐性はないから安心じゃ! 良かったな、かごめ」
屈託なく情け容赦のない評価を「断」として下す子狐である。賢く大人びているとはいえ、そこは色恋の本当の意味での複雑さが分からぬ子供のこと。だからこそ、真実であるとも言える。
「七宝ちゃんたら何言ってるのよ。弥勒様だって、“多分”大丈夫よ」
気を使っての取りなしに、かごめの苦労が透けて見えた。
“多分”と形容される、その身持ちの信用のなさが問題と思えるあたりに、珊瑚の苦悩が伺われる。“甲斐性がない”と、“安心”だと、色恋の疎さを断言されてしまうあたりに、かごめの切なさが伺われる。そして、聞き耳を立てる者たちは娘たちの想いの強さに中てられもする。
「ほら、七宝だって信用してない」
「七宝ちゃ〜ん」
「おら、嘘は言っておらんぞ」
子どもが素直で正直であることは、真にもって望ましいことであるとはいえ、この状況ではとても望ましいと言えるものではない。かごめに言わせてみれば、TPOを踏まえて欲しいとか場の空気を読んで欲しいと心ひそかに願う場面である。
情報収拾のために分かれて行動している連れの男二人を探す一行に、声をかける者がいた。そこは花街とはさほど遠くはない場所。声がするのは、その疑惑を膨らませる場所のある方角からである。
「まい すぅぃーと はにぃ〜〜♥ 珊瑚」
聞き耳を立てている街の者たちの好奇心は一気に高まる。
「法師様!」
「弥勒様!」
「弥勒!」
三つの声が同時に上がる。
娘たちが視線を向けた先には、一人の法師がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。そして、隣には沈黙をもって顔をそむける者が一名。
(冗談抜きに怪し過ぎる…)
(弥勒様、その台詞はいったい何処で覚えたのよ)
(弥勒のやつ、思いっきり怪しいぞ。おらがとっちめてやらねば)
(おめえ、そりゃあはっきり言って墓穴。どう見ても墓穴!)
当人以外の者の胸の内を知ってか知らず、必要以上にきらきらとした涼やかな瞳が、目の前の法師の怪しさをいっそう際(きわ)出たせていた。
街の人々にとって、噂の二人がこれほどまでに対照的だとは思いもよらなかった。
浮気の心配がまったくないとされる男は、今では目にすることさえ珍しくなった雅な緋色の水干を身にまとっていた。年の頃はそろそろ青年の域に入ろうとする少年。ただ、その姿が限りなく異様を呈していた。白銀の髪、金の眼、そして獣のつんと立った耳。人外の血をまざまざと感じさせる。そして、件の法師とやらは爽やかな有髪の法師。どうにも苦笑漏れる噂のほかには誰よりも旅に身を置く者として違和感のない姿をしていた。
ある意味、この一行の中では法師ひとりが場違いに見える。そして、その取り合わせに、誰もが彼ら一行の収まりの良い関係はと夢想する。
「犬夜叉、弥勒様。お帰りなさい。で、首尾はどうだったの?」
かごめがすかざす問いかける。
「残念ながら収穫はなしですな」
「まあ、そういうこった」
というわけで、本題の情報収集の報告は早々に完了する。珊瑚の口の端がひくっと引き攣ったことにいったい誰が気付いただろうか。
「で、ちょっと聞くけど、法師様ってば何かしなかったかい?」
ここからは冷やかな疑惑の誰何(すいか)であった。こめかみのあたりに緊張感を走らせてはいるものの、にっこりと微笑む娘が声をかけたのは、法師ではなく、異形の半妖の少年、犬夜叉にだった。
真直ぐ艶やかな黒髪を翻し、目尻に少しばかりの険を含ませた少女が、その口から発する言葉に付帯する冷やかさに、半妖の少年は思わずもう一人の少女の背後に回り込んで返事を返す。
「や、や、やって ねえと思うぞ」
犬夜叉は彼なりに気配を察して曖昧に答えた。珊瑚の鋭い眼光に射竦められ、いつもはどんな敵に出くわそうと己の背を盾にして守ると決めている少女の肩につかまりその身を隠し、肩越しにちいさな声でぽそりと答えた。
「ねえ。法師様は何をやってないって? それに犬夜叉、なんだってあんたはかごめちゃんの後ろに隠れているのさ。ねえ、犬夜叉。はっきりと言いなよ」
珊瑚の指摘の仕方はなかなか鋭い。嘘の苦手な犬夜叉にとって答に窮する場面であった。
「……」
犬夜叉が次に続ける言葉は……ない。
「もう一度聞くよ、犬夜叉。法師様ってば何にもしなかったのかい?」
「俺は弥勒が何かやってるのは見てねえ」
犬夜叉はこう言った。
「ふ〜ん、そう。分かった。犬夜叉何かやってるのは見なかったんだね」
「ああ、嘘は言わねえ」
目元に冷たい微笑を浮かべた珊瑚に詰め寄られた犬夜叉は背筋に冷たいものを感じた。できれば、その眼差しは当事者に送ってくれと言ってやりたいところだ。
ゆっくりと法師に向き直す少女の瞳を見つめて法師はきっぱりと告げる。
「珊瑚。愛しいおまえを裏切るようなことは何もしておりませんよ」
「……」
「……」
「 俺は見てねえ、見てねえ。目え瞑ってたから、何も見てねえ!」
「白粉の匂いをぷんぷんさせおって、よくぞそこまで爽やかに否定できるものじゃ」
言うべきではない真実を、ぽそりと落とす朴とつな半妖の少年と子どもであった。かごめの肩に置いた犬夜叉の指に、思わず力が入る。
「痛いっ! 犬夜叉、こんな時に爪立てないでよ」
「あ、悪りぃ」
思わず、手を引っ込める半妖の少年。
聞き耳を立てる者たちにとって、今はもう異形の彼らへの恐れはかけらもない。娘の背に隠れた半妖の可愛らしさ、その半妖の少年にきっぱりと注意をする娘の勇ましさがそれを打ち消していた。あとは、ことの顛末をわくわくとして静観するのみ。はたして、不逞の法師の運命やいかに、と。
「法師様、もう一回聞くからね。どこら辺りからしてないって?」
「どこら辺り……って?」
よもやそう切り返されるとは思ってもみない法師に初めてたじろぐ様が見てとれる。
「そう、どこら辺りまではやって、どこら辺りからしてないかって聞いてるのさ」
きつい目をした審問官の娘と口の上手(うま)そうな法師の反撃に、誰もが固唾を飲み込む。娘の目は逃げる獲物を追い詰める肉食獣のそれを思い起こさせる。
「珊瑚、犬夜叉は何も見ていないと言ったじゃないですか」
「そうだよねえ、目を瞑っていれば何も見えないよね。犬夜叉」
「……」
「そうなの? 犬夜叉」
かごめが犬夜叉を肩越しにこそりと尋ねると、少女の目に映った半妖の少年の視線は空を彷徨(さまよ)っていた。
真実は必ず露呈するものである。
「例えば、誰かの手を握りしめたとか?」
「例えば、誰かにいつものあの台詞を吐いたとか?」
「例えば、誰かの尻を触ったとか?」
「これ以上、口にしたくないことをやらかしたとか?」
「さあもう一度聞くよ。法師様、どこまではやったんだい?」
わざわざひとことずつを区切って質問を重ねていく珊瑚の手厳しさに、法師はこう返した。
「さ、さ、珊瑚。おまえを裏切るようなことは…あははははっ」
勝敗が決まったと誰もが悟る。あとはその言い訳はなんぞやと。
「第一、犬夜叉が一緒にいたら大したことは何もできませんよ」
「語るに落ちたね。法師様。もう一度、犬夜叉に『あんたには“何”が聞こえた?』って尋ねる前に、その『大したことない』ことをさっさと吐いた方が楽だと思うんだけど」
「珊瑚、ちょっと目が据わってません?」
先ほどのまでの爽やかな法師の笑顔は、額をつつっと流れる冷汗とともに凍りつくこととなる。
ある日の彼らの日常が、いつの世にもある男の不貞と女の恐さを改めて自覚させ、異形の存在への恐怖を少しばかり低くする逸話としてこの街の者どもの「をかし」の枕話として語られることとなる。
そして後には、この世の終わりの危機とも呼ばれた未曾有の災厄を救った巫女と半妖、そしてその仲間たちの噂を耳にすることとなった街の人々の間に、彼らを実際に目にした自慢話として長く伝わることとなるのである。
もちろん、尾ひれ羽ひれもたっぷりに。
- 了 -
初出 2005.06.27 / 改訂 2008.11.23
那名様「まい すぃーと はにー」
- Ikuからのメッセージ ←java script on/ click開閉
お気に召されましたら、「ぽちっ♥」と頂けると嬉しいです。