馬子にも衣装
――ざばっ。
「おーい、草太。先に上がってるぞ」
「うん。僕もそろそろ上がるから、ママに麦茶って言っといてくれる?」
「分かった。そう言っとく」
草太と一緒に入る風呂は、こちらの国での最近の常となっていた。
「にいちゃん。そこでぶるんってやんないでよ。こっちにしぶきが飛んでくるじゃない」
「あ、すまん」
いつもの癖でぶるりと身震いして、草太に小言を言われることもちょくちょくある。けれど、水気を切るにはこれが一番手っ取り早いので、なかなか止められるものじゃない。
最近では、湯で汗を流すことも案外悪くないと俺も思うようになってきた。こちらのみんなが使うシャンプーとか呼ばれる“しゃぼん”には強い花の匂いがした。かごめの髪の残り香のように仄かに匂う分にはとても良いものだけれど、それで自分の身体や髪を洗うには目めまいがしそうなほどに強い。初めてこちらで入浴した際、そのせいで目を回したなんて、井戸の向こうのやつらには恥ずかしくて言えやしない。
今は匂いが付いていない俺専用のものまでここには用意してある。白い容器には、俺には読めないバテレンの文字と犬の絵が描いてあるのだけれど、どういう意味だろう。 草太が言うには、俺専用の印だと言うのだけれど。
――がらり。
「あれ、俺の衣はどこだ?」
そんなある日のこと。風呂から上がると俺の衣がなくなっていた。入浴前に脱いで置いてあったはずのかごに残っていたのは、俺の愛刀鉄砕牙と大きな手拭いのみ。
「またか?」
しばらくの間、どうしたものかと考えていると、戸口の引き戸をコンコンと叩く音がした。
「犬夜叉君、そろそろお風呂から上がるかしら?」
扉の向こうから声がかかった。
「おふくろさん」
がらりと戸を引き開けると、目の前にはかごめと草太のおふくろさんが立っていた。
「犬夜叉君、あなたのお着物が乾くまで、ちょっとこれを着ててちょうだいな」
風呂から上がった俺がおふくろさんから緋鼠の衣の代わりに手渡されたのは、どうやって着ればよいのかもよく分からない衣だった。
俺は、目の前のにっこりと笑う働き者で優しいおふくろさんを困らせるつもりは毛頭ない。そう、俺はこの人の笑顔を曇らせたり、善意や信頼を踏みにじりたくはないといつも思っている。
けれど、自分で脱ぎ着の仕方も良く分からないような衣を前にすると、一人の男として情けなくもなるのだった。
「おふくろさん、俺はいつもの衣でいい。濡れていたって、あれはすぐに乾くから」
「困ったわね。今、あなたの着物は洗濯機に入れたばかりなのよ。ごめんなさいね。あと、最低三十分。ええっとそうね、小半時は取り出すことができないの」
おふくろさんは、ぐおんぐおんと不気味な音を立てて振動している傍らの大きな機械仕掛けの箱を指さし、すまなさそうに謝った。実際のところ、洗剤まみれであろうと、その後のすすぎが面倒なだけで、その気になればいつだって取り出せるのだけれど。
「仕方がねえ。じゃあ、じいさんの着物か何かでも」
せめて、自分で気楽に着られるものをと、さり気に提案をしてみた。そこは、男としての矜持でもある。
「あのね、おじいちゃんの着物ではあなたには裄(ゆき)も丈も足りないのよ。夏の浴衣ならまだしも、さすがに今はそんなつんつるてんなものは着せられないわ。あの、これの着方は草太に聞いてくれる? かごめでもいいんだけど。基本は上下に分かれた着物と袴だから。着替えたら麦茶を出すわね」
にっこりとした微笑と、有無を言わせない強さで、おふくろさんは赤と白の着物一式をぽんと叩いた。
「草太、おめえのおふくろさんがこれを着とけっていうんだけどよ、どうしたらいいんだ?」
かごめに聞くのは憚られる。最善の策はやはりこの選択肢だろうと、俺はおふくろさんから手渡された赤い風呂敷のような大布で包まれた衣一式を小脇に抱え、風呂から上がった草太に問いかけた。
「犬のにいちゃん、本当にそれを着る気?」
一瞬目を真ん丸くして、妙に口元をゆがめた草太がこう言った。俺はなにやら不穏な空気を感じた。
「おめえのおふくろさんにこれを着ろって言われたんだぞ」
「ママがそんなこと言ったの?」
草太はそう言ったきり口をつぐむ。
「おいっ、何かあるのか。この衣には!」
この沈黙には何かある。俺は自分の胸の内に沸いた不安を隠して、草太に聞き質した。
「いや、別に。にいちゃんの気のせいだよ」
草太はにっこりと笑うが、その目には隠し切れない何らかの動揺が含まれていた。
「なんだよ。草太、はっきりと言いやがれ」
それは、生まれてからこの方、数多の危難を超えて生き延びてきた野生のカンが俺に危険を知らせていた。
「にいちゃん。そんなに気にしなくていいから。これはただの着替えだから」
草太の一拍置いた微妙な間が、今も俺に警鐘を鳴らす。
「……」
でも、次に続く言葉が出てこない。
「まずは、いつものこれね」
無言のままじっとりと見つめる俺の視線を気にもとめず、草太は最初の一枚を俺に差し出した。
「ああ」
草太に白い下帯を手渡された。いつもの品に、少なからず俺の警戒心は薄くなる。
これは、以前に衣を洗われた際に身に付けたものと同じ。腰の両脇の位置でぐいと紐を引き結んで縛る。いつもの下帯に比べれば布地の量がかなり少ないけれど、身につけ方が似ているので俺は気に入っている。草太はこれを身につけた俺を見るとぷっと吹き出しやがる。俺から見れば、腰周りを紐でなく、伸び縮みをする“ゴム”とやらで中途半端に締め付けられる方が心元ない。腰だめに身構えると、ふにゃりと下がって安心して下腹に力が入れられねえったらありゃしねえ。
そういえば、かごめの下帯はやけに小さくて伸び縮みしたなと、ふいに記憶が蘇った。
短い苔色の袴の裾から時折覗く下帯を思い出して赤面する。あれには、細い蝶結びの飾りや小花の地模様が透ける小布やひらひらの襞があちこちに付いていて、柔らかくて、かごめの白い肌にぴっちり吸い付いていて、と手に覚えた触覚とこの目に納めた視覚の記憶で脳内が爆発しそうになる。
「にいちゃん、さっきから何顔赤らめて百面相してんの?」
頭をぷるぷると振って、急いで記憶を追い出していると、草太が俺の顔を下から見上げていた。
「次は?」
俺は草太の突っ込みなど何も耳に入らなかった振りをして、次に身につける衣を催促した。
「はい、次はシャツ。被るだけだよ」
それは、こちらの世界で何度か身に付けたことがある袖もなければ前の合わせもない貫頭衣のような柔らかな単(ひとえ)。こちらの世界での下着だとか。首周りに小布が付いていて、それが背側で内側にして身に付けるのだと以前教わった。下帯を思えば、単が伸び縮みする着心地は素肌のままを思わせて悪くない。
「うんと、次はこのスパッツね。にいちゃん、これは身体にぴっちりした袴だから。股のとこのチャックを上げてボタンもちゃんと嵌めてね」
草太は俺が初めて見る着物を差し出した。
伸縮性のある袴に足を通す。なにやら体中が絞り上げられそうな感触なのに、動きを決して妨げない不思議な袴だった。以前着てみろと言われた青色で地厚のごわごわした袴を思えば、しゃがむにしても、踏ん張るにしても、たいして圧迫感も感じず動きやすい。ただ、異様なほどに地肌に張り付き、身体の線が露なことが少々落ち着かない。衣と呼ぶよりは素肌に一皮まとった妖怪の表皮を思わせる。袴の股上にあるチャックと呼ばれる不思議な編み上げは小さな金具を引き上げるとぴちぴと歯車が噛み合い、隙間が閉じていく。股間が締め上げられて、きっちりと収まる着心地は案外悪くない。ちょっと挟みにそうになって、どぎまぎしたけれど。
「……」
今、草太の視線が俺の身体を上下に流れた気がする。それが気になって、俺は草太に声をかけた。
「おいっ、どうしたんだ?」
草太は俺に順番に衣を差し出す合間に、自分はとっととパジャマと呼ばれる寝巻きに着替えていた。草太の着物と、今俺が身に付けている着物の雰囲気が微妙に異なるのは気のせいだろうか。
「うん? そのスパッツは、にいちゃんにぴったりだなって思ってね。よく似合ってる」
草太はにっこりと笑った。
「そうか?」
「うん」
現金なものである。似合うと言われると悪い気はしない。
「おい、次」
「次は上着ね」
手渡された上着もやけに身体にぴったりと張り付くものだった。先ほどの袴と同じ、身頃の前合わせがチャックという歯車によるものだった。金具を持ってちぃーっとチャックを首元まで上げる。
「にいちゃん、いつもの着物だと案外着やせてして見えるんだ。けっこう胸板が厚いんだね。かっこいいや」
草太が俺をしげしげと見つめてこう言った。
「最後はこれね。あ、ついでにこの手袋もはめてみて」
「おい、草太。今までこっちで、こんな衣着てるやつなんてなんて見たことねえぞ」
はっきり言って用途が分からない。それはまるで、あいつの――殺生丸の、あのゆったりと右半身をおおう毛皮のような代物だった。もっとも俺が身に付けたものは毛並みは短く、俺のいつもの衣と同じ緋色をした大きな羽織のようなもの。それは足元まで引きずるほどのゆったりとした長さがあった。寒さ避けにしても長過ぎじゃなかろうか。指先まですっぽりと覆う手甲はなめした皮のようで、指の一本一本を過不足なく覆う。とても仕立ての腕が良いのだろう。でも、これではいざって時に爪が使えねえじゃねえか。
「ママ、ねえちゃん、じいちゃん。犬のにいちゃんの支度ができたよ。思ったよりいけるみたい」
草太はそう言うと、襖をからりと開いた。
「きゃ〜〜〜っ、いい! 犬夜叉、いける! ものすごく嵌ってる!」
「まあ、犬夜叉君ってば立派なソルジャーだわ」
かごめとおふくろさんは互いに両手を取り合って、方や耳をつんざく嬌声、もう片方は相変わらずのおっとりとした口調でこう言った。そして、ふたりの頬はなぜか上気していた。
「そるじゃあ?」
「そう、素晴らしい戦士とか、武人に与えられる称号よ。犬夜叉君にぴったりだわ」
どうやら褒められているらしい。照れくさくなって、俺はぽりぽりと手甲を嵌めた指で頬を掻いた。武人と称されることは刀を手にする者としての誉である。悪い気はしない。
「やっぱり犬夜叉には赤よね。赤のマントがよく似合うわ。犬夜叉、マントの裾をばさっと翻してみてくれる?」
かごめは自分の短い羽織に手をかけて翻した。こんな風にやってみろとの見本なのだろう。
「犬夜叉君は銀髪だから、こっちの青いマントも似合うと思うわよ」
かごめのおふくろさんは、色違いの青く長い羽織を手にしていた。
「あら、青もいいけれど、犬夜叉には断然赤よ」
親娘でなにやら言い争っている。どうやら、床にまで引きずる羽織の色のことをふたりで吟味しているらしい。それにしても、武人として、この羽織の長さは動きを制限されるのではなかろうか。
「どっちの色もなかなか素敵ね。でも、こればっかりはやっぱり無理ね」
「確かにね。それは無理よね。犬夜叉の場合」
露骨に挫折感を露にして、ふたりは溜息をついた。
「おい、何が俺には無理なんだよ。溜息までつかれるのは気分が良くねえ」
特に、信頼を得たいと常日頃から思っている相手に、自分を否定され期待できないと言われることは胸が痛む。
「だってねえ」
「うん、仕方がないよね。こればっかりは」
おふくろさんは、手に鋼でできたなにやら丸い道具を手にしていた。
羽織の色でもめていたふたりも、その点では一致団結の共通の意見らしい。手にする道具を残念そうに視線を落とした。
「だから、何が無理で、駄目なんだよ」
つい、大声を上げてしまう。
「だって、犬夜叉ってば顔の横に耳生えてないもん」
「そうよね、それじゃあね」
はーっと二度目の溜息を、ふたりして盛大に付いた。
「……」
それが、なぜいけないというのだろうか。
「ねえ、おじいちゃん。ママとねえちゃん、いったいどうしちゃったの?」
草太が風呂上りの麦茶のコップを握り締め、傍らの祖父に声をかけた。
「うむ。先日テレビでSF映画をやっておったじゃろ。その主人公だかに犬夜叉のやつが似ておるというか、髪がその戦士と同じ色だとかで、ママさんが一度あの衣装を着せてみたいとたくらんでおったらしい。コスプレとか言うんじゃろ? ああいうマントばさばさの格好は」
こちらは、せんべいを片手に渋茶をすする傍観者の老人であった。
「ふーん、でも普段の犬のにいちゃんの着物だって、傍目に冷静に見ればコスプレみたいなもんじゃない。刀だって差してるし」
それは、犬夜叉自身を、すでにそれを普通と受け止めている普通でない者の視点であった。
「……ま、そうじゃな」
普通でない者がここにもひとり。
「それより、ぼくとしてはママが持ってる“補聴器”以前に、あの裸足の方を何とかしたほうが良いと思うんだけど」
足首までしかないソルジャー・スパッツの先の素足は大股を開いて、畳を踏みしめていた。
「……ま、記念に写真を撮っとしても、下は写さんほうがいいな。普段から裸足で歩き回っておる犬夜叉に履ける長靴なんぞ、ないからの」
「じいちゃん、長靴じゃなくってブーツだよ。でも、それにしても、こんな衣装をどこで借りて来たんだろうね」
「本当にの。あそこならあるかもしれんぞ。たしか、『何でも貸します、北条産業〜』と宣伝をやっとるじゃろ?」
「ああ、あそこなら何でもあるらしいね」
「でも、もしかするとママさんが自分で作ったのかもしれんぞ。裁縫が昔から上手じゃったからの」
「ふ〜ん、ママすごいね」
傍観者達のやけに冷静な会話は続く。
ふいに、かごめが朗らかに提案をした。
「ねえ、みんな。せっかくだから、記念に写真でも撮らない?」
「おい、記念って何なんだよ! この衣がなんの記念になるんだ!」
「いいから、いいから、ソルジャー犬夜叉は文句言わない!」
少年と老人は、姉と母親の浮かれた顔と困惑のソルジャーの顔を交互に見返した。
穏やかな、和やかな時が流れ行く。
- fin -
初出 2008.01.06/ 改訂2008.01.10
みぃ様「ミクスチャ犬君」より
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