幸多かれ
大音響によって人々にその季節を実感させていたアブラゼミの存在感が、いつの間にか哀調を帯びたヒグラシが支配する世界へと取って替わられ、日々、少しずつ早くなる夕暮れとともに、チリチリ、ピピピピピと可愛らしい音を発するマツムシやコオロギをはじめとする虫たちの涼音がそれまで静かだった草むらに重なり始めた。それは、夏も終わり、秋の始まりの頃。
ひんやりとした麦茶のグラスから、数日前より湯気がゆらりと立ち上る湯呑に持ち替えた老人がずいっと茶を啜る。冬の寒冷、夏の暑気、加齢による身体の衰え、石段を登り切った階上に住まいがあるためか、最近は体調を崩すことも多くなり、以前よりも少し小さくなった印象を呈し始めた老人が、珍しく張りのある声で彼の孫に告げた。
「まだ数年先の話となるが、この由緒ある日暮神社の五百年祭を執り行うこととなっておる」
この神社の宮司である老人は、いつになく瞳に力をみなぎらせた。
「えっ、そうなの?」
それは、中学に通う孫の草太が、冷蔵庫から取り出したパックの牛乳をカップに注ぎ、ぐびりと喉を潤した時だった。
「じいちゃん、お茶のお替り、要る?」
視線が交差する。老人は意志強く、もう一方の若者は柔和な表情を浮かべて。
「うむ、頼むとしようか」
「うん」
返事とともに、草太は食卓の上に置かれたまだ温かい急須を手に取り、こぽこぽとポットから湯を注ぎ食卓に置くと、カップボードからもう一つ湯呑を取り出す。少し蒸らした急須のお茶を二つの湯呑に交互に注ぎ入れ、最後の雫が祖父の湯呑に落ちるのを静かに待つ。それは、流れるように自然な動作だ。
「はい、熱いから気をつけてよね」
湯呑の一つを差し出し、返す手で祖父の正面の椅子を引く。
「ところで、じいちゃん、それって特別な御祭りなんだよね」
席に座を占めると、湯呑に息を吹きかけながら草太は尋ねた。
「うむ。うちの神社が今の形になって五百年になるという。神社にとって、毎年の例祭――大祭式例祭(たいさいしきれいさい)はとても大切なものじゃが、数年後というか、実際には四年後となるのだが、五百年という特別な区切りということもあり、今からしっかりと気を入れて準備してやり遂げねばならぬ」
力が入るとはこのことだ。
「ふうん、毎年のとは違うんだ」
草太の問いがきっかけとなって、祖父のうんちく話が始まる。
「うむ。そもそも御祭神の神力にしても、神力が宿るとされる御神体にしても、神道においては『改める、新たにする』ことによって力が甦ると考える。神宮――伊勢神宮においては、二十年に一度の式年遷宮の際にすべての社殿だけでなく、装束や神宝に至るまで全部新たに作り替える。実際には、経験者がいる間に造り直すことで職人の技術の伝承、次の世代への引継ぎの意味も大きいが、の。出雲の大社(おおやしろ)では、建て替えまではせぬが、六十年に一度御祭神に遷座していただき、屋根の檜皮(ひわだ)を新たに葺き替えたりするなどの大改修を執り行い、神のおわす場を一新する。草太にはまだ難しかったかな」
形あるものはいつか壊れ失われる。壊れ失われなくとも老朽化する。それは、世の理(ことわり)。古きを古きのままに大切に受け継いでいくことも、新たに改めることも、過去から未来へとその歴史を繋いで行くこととなる。
「うん、なんだか難しい言葉がいっぱいだね。でも、すっごくお金がかかりそうな話ってことは分かる気がする」
まだまだ子どもの域とはいえ、すでに中学生。世は金なりの一面があることを理解する草太であった。
「問題はそこなんじゃ。大掛かりなことがどこの神社でもできるわけではない。以前はやっていたところでも今では規模の縮小や中止ということもけっこうある。この日暮神社でも、百年に一度の大祭を目途に本殿をはじめとして、あちこち細々と修繕をしておる。もちろん、それ以外にも必要に応じて社殿の修繕を施すことが今までにもあったことなのじゃが……」
祖父はすでに何年も前から此度はどうしたものかと頭を悩ませてきた。
「大丈夫なの? うちの場合」
百年に一度。それがちょうど自分の代に回ってくるということは、晴れがましさを覚える一方で、それゆえの多忙と重責の緊張感と資金繰りの苦労で愚痴の一つも言いたくなるものだ。しかしながら、それもまた、巡り合わせに違いない。地震、雷、火事、おやじ……最後の一つは天災とは関係ないが、そういった不慮の大災厄に巡り合わせていないだけでも、決して運は悪くない。
「頭の痛いところだな。先を見据えてというが、わが神社の将来のことも考えて、氏子の皆さんに寄付も含めてお願いせねばならぬことも多い。その一方で、あまり無理も言えぬし」
眉間に縦皺を寄せ、日暮神社の最高責任者である現宮司は渋面を作った。
「まあ、十年ほど前の台風で本殿の屋根がいくらかやられた際、此度の前倒しも含めて、ある程度の大掛かりな修繕は済ませておる。もっとも、この先百年のことを考えれば、細かな修繕はもう少しせねばならんと思うが」
にやりとする祖父に、先ほどの渋面は演技かと突っ込みたくなる孫であった。
「少なくとも、御祭神に遷座していただき大修繕をするなどという話はうちの神社には伝わっておらん。代わりに、御神体を収めた箱を改めることで新たに霊力を吹き込むとするのじゃ。それも百年に一度。他には、新たに梓弓を一張り奉納する。費用のことを考えても、まことにありがたいことだ」
祖父の話はまだまだ続く。草太は、時折、合いの手を打ったり、問いかけを挿んだりしながら話に耳を傾ける。最後まで話をきちんと聞かんからじゃ!と、よく注意されていた嫁に行った姉とは違って。
「この日暮神社の後継として、お前も手伝ってくれるか?」
「もちろんだよ、じいちゃん」
小学生の頃の、大きくなったらサッカー選手になりたいなどといった夢想を含んだ子どもの夢から、現実を踏まえた将来の進路――歴史ある家に生まれた者としての責をわきまえ始めた孫息子であった。そして、五百年前という特別な“時”に思いをはせる。
「じいちゃん。それはそうとして、うちの神社の歴史ってどうなってるの?」
「ぬぬ!おまえ、そんなことも知らんでおったのか!」
すぐに神社の由来や由緒を忘れてしまった草太の姉を彷彿とさせる初心者過ぎる問いである。
「じいちゃん、今までほとんど話してくれなかったじゃない。まあ、ぼくもまだ小さかったからだろうけど」
それは事実であった。祖父がよく語って聞かせていたのは、いずれは嫁に行き家を出る草太の少し年の離れた姉であって、幼い草太ではなかった。その姉もすでに嫁に行き、今はいない。
「……」
図星を突かれて二の句を告げない祖父である。
「だからさ、これを機会にいろいろと話して聞かせてよ」
と、草太はにっこりと笑う。
孫に促され、宮司である祖父は縁起を語り始める。
「うおっほん。先ほども話したが、縁起によると、わが日暮神社は一千年の昔まで歴史を遡る」
「うんうん」
草太は聞き上手である。
「そもそもこの神社の始まりは、この地にお生まれになったという高い霊力を有された一人の尊い巫女様に端を発するとされておる。残念ながら、その御名は伝わっておらぬ。その方はあまたの妖怪、魑魅魍魎をその霊力で平伏、浄化されたという。その方が最後の最後に四魂の玉を生み出され、その玉にあまたの妖怪を封じ込め、ひとまずの安寧がこの世にもたらされたと伝わっておる。その後、しばらく記述がない」
祖父はそこでいったん話を区切り、茶で喉を潤した。
「ふーん、半分伝説というか、おとぎ話みたいだね」
草太は素直に感想を伝える。
「まあ、古い話で、どこまでが本当かは分からぬ。だが、……四魂の玉は本当にあったからな」
「そうだね」
神社に祀られ、それを象った御守も社務所にありながら、誰もが心の中で言い伝えに過ぎないと思うその宝玉の実在を、日暮の家の者は決して疑わない。疑いようがなかった。そして、件の御神体とされるものが、どのような経緯を辿ったかということを別の視点から知る者同士の、歯切れの悪い会話でもあった。神社の縁起に残っていない件の巫女の名も、実は聞き知っている。
「次に記述があるのは、今から五百年ともう少し昔となるかのう。ちょうど室町時代の終わりへと近づく応仁の乱で知られる頃じゃ。当時、すでに枯れ井戸となっていた『骨喰いの井戸』について記されている。妖怪の亡骸を捨てるといずこかへと消え失せた、と。それもあってか、『骨喰いの井戸』は忌みごとを浄化してくれるものとして伝えられておる」
「へえ、そうなんだ。祠の横のところに書いてある説明みたいに、おどろおどろしいだけじゃなかったんだね。ちゃんと、ご利益もあったんだ」
「まあ、恐ろしいばかりのものならば、もっとがっちりと封印されておったはずじゃし、の」
「続けるぞ」
「……う、うん」
「おほん。この少しあと、ちょうど今から五百年ほど前のこと。たぐいまれな霊力を持った巫女の生まれ代わりが汚(けが)れた四魂の玉を清め、再びこの世に平安をもたらした、とある」
伝わる話の多くはどこかあいまいで、真実と願望がないまぜで、そして、時として矛盾を含んでいる。
「そして、この時代あたりから神社を護ってこられた代々の神薙ぎ(かむなぎ)や巫女の名が記録に残っておる。この記録から、わが日暮神社は少なくとも五百年はここに歴として存在するというになるの。五百年の大祭もあながち嘘ではないということだな。千年となると、実はなんともいえぬが」
草太にとっては、ここからが核心に触れる部分でもあった。
「ねえ、そのたぐいまれな巫女様の生まれ変わりって?」
「その方の名も伝わっておらぬ」
草太にとっても、祖父にとっても、縁起としての伝承に求めるものは同じであった。
「じゃあさ、その神薙ぎや巫女にどんな人がいたの?」
「最初に名が出てくるのは晴明様という」
「どこかで聞いたような名前だけど、誰だっけ?」
「安倍晴明ってところか? お前が言いたのは」
「そう、それ。なんか関係あるの?」
「多分、関係ないじゃろう。時代が違うわい」
「なんだ」
「晴明(せいめい)、一目(いちもく)、六(ろく)なんとか様。伝書にはところどころ虫に食われて読めぬところもあるが、風伯(ふうはく)、櫻子、瞳子、薫子、白露(はくろ)、楓子……といったように、な」
「ふーん、なんか巫女もけっこう多いみたいだね」
草太が耳を澄ます理由には、行き当たらない。
「まあ、昔は、雨乞いの神事や託宣などで、小さな村々でも年若い娘が巫女として選ばれ、短い期間に入れ替わり立ち代りで務めることも多かったらしいからの。正確なところは分からん。名前も送り名のようなもので本当の名ではなかったかもしれぬし。それでも、わが日暮神社は今にこれだけの社と、四魂の玉や骨喰いの井戸にまつわる伝説を伝える特別な存在であったということじゃ」
「そうだね、本殿もけっこう大きいし、それに、……四魂の玉も確かにあったし、今も井戸だって、御神木だってあるわけだし」
謂れ自体が無きに等しい――その地に住まう村人たちのための生活と直接的に繋がった氏神様、世にあまたある鎮守の杜とは異なる伝承を持つ日暮神社。それゆえに、彼らには特別な意味を持つ。
「ねえ、じいちゃん。話の最初の方で、御神体とか、弓がどうとか言ってなかった?」
「梓弓のことか?」
「そう、それ。それが御神体とかになってるの?」
「なってはおらん。弓はその時々の神薙や巫女、今でいうならば宮司によって奉納されたものだ。そして、此度の五百年祭でも奉納することになっておる」
もし、そうであればとの期待は失望へと変わる。過去を辿れば何かが見えるかもしれないとの思いと、ならばなぜ予兆に気づかなかったかという思いが、いつもここにある。
「一応、御神体は四魂の玉とされておる……」
微妙な表情を浮かべ、そして冷や汗を流しながら、きっぱりと断言しづらそうに現宮司は語る。できることならば、口癖の「そもそもこの…」とうんちくを延々と語りたい性格でもあるけれど。
「……」
拝聴する側としても、その冷や汗の意味を重々と言ってよいほどに熟知していた。
「ねえ、じいちゃん、五百年も前からここに神社があったなら、なぜ、残ってないのかな」
「草太」
「だってそうでしょ? 姉ちゃんも、兄ちゃんも、姉ちゃんの仲間だという人たちも、なんで何も残してくれなかったのだろう」
「……」
沈黙が流れる。
「歴史が変わってしまうからかもしれないわね」
ふいに廊下から続くドアが開き、声が届いた。この家のもう一人の家人の声だった。
「おかえり、ママ」
「おかえり」
「ただいま。おじいちゃん、草太」
この家の主婦は静かにほほ笑み、手にした買い物袋から冷蔵庫へと荷物を片付けながら言葉を継いだ。
「もし、事細かく伝わっていたら、怯えて暮したかもしれないわ、わたしたち」
「えっ、どういうこと?」
「神隠しに遭うようなものでしょ。たとえ幸せに暮らしましたと言われても、呪いの予言みたいなものじゃない」
「あっ……」
食品棚に収納する荷物があと少しといったところで、彼女は手を止める。
「骨喰いの井戸がかかわってくるって知っていたなら、厳しく禁じたかもしれないわ、井戸には絶対近づくなって。いくら由緒あるものだとわかっていても井戸を壊してと訴えたかもしれない。もしかしたら、埋めてしまったかもしれない。そう、何も始まらないように。始まらなければ、出会うこともないのだから」
「……」
草太が垣間見た母の表情は、普段彼が目にしないものだったかもしれない。
「あの日、ぼくがねえちゃんを祠に呼んだんだ。ブヨが入り込んじゃったから。あの時、ぼくが呼ばなかったら、姉ちゃんは行かなかったかもしれないって……」
ぽつりと告白をする。これが、草太が胸にしまい込んでいたものだった。当時の草太はまだ小学生で、事が起きた当初は別としても、その後、それほど気に病まなかったのは、姉はちゃんと帰ってきたからだった。
「……」
「でも、防ぎようがないことだったと思うわ。きっと、何をしようと始まってしまったと思うの」
道を変える手立てはなかったろうかと何度も過去を振り返った。いつの時でも、本気で止めようと思えば止められたかもしれないとも思う。そしてまた一方で、運命だったとも納得する。それは、出会ってしまったから。
「……」
「多分、あの子たちの心遣いなのよ。わたしたちが恐怖に怯えながらあの日が来ることを待ち続けずに済むように。そして、自分の意志で決めるために」
「……」
「信じているわ、あの子は幸せだって」
「そうじゃな」
「でも、……できれば、あの子たちがちゃんと会えたのだって知りたいわね」
彼女は娘たちの優しさを抱き止めながら、その一方で少しばかりの恨みに心を揺らす。子の幸せを願うばかりの親の思い。あの日の娘のまっすぐな眼差しを思い出し、娘の幸せを信じてはいても、少しでいいから消息を知りたいと思う。誰の心も与えるばかりで満足できるようなものでなく、己の心の平安・喜びを欲しがる不完全なものだから。再び廻り逢えたという確証さえあれば、その先の心配はない。それだけの信頼もあった。
「草太、今から本殿に行くぞ」
ふいに、祖父が椅子から立ち上がった。
「じいちゃん……」
祖父に釣られたように草太も椅子から立ち上がる。年ごとの祭礼を、月ごとの行事を、そして日々の務めを、神社大事と真摯に守ってきた宮司の掟破りな言葉に目を見張った。
「五百年前に消えたはずの、今はもうないはずの四魂の玉が今もあるかのように伝えられておる。それに四年後にはどうせ開けることになっておる。それが今でも大して変わらん。今すぐ確認しに行くぞ」
「おじいちゃん!」
「じいちゃん!」
本殿の奥殿。その中央に鎮座する箱は無垢の桧(ひのき)で作られていた。箱にはすでにないはずの四魂の玉とされる御神体の宝珠が収められているはずであった。草太は祖父の指図で、毛氈を広げ敷いた床に箱を密やかにおろす。
「よし、開けるぞ」
罰当たりな行為はこの老体が引き受けるとばかりに、祖父が木箱の封印を破り、上蓋を持ち上げた。
「!!!」
「これって、四魂の玉じゃなくって……」
箱の中には、その場にいた三人の誰もが知る品が収められていた。
「じいちゃん、他に何かないの?」
目の前に現れた手がかりに心臓が早鐘を打つ。
「そうじゃ、秘伝の書と神宝(かむだから)がある」
祖父の声が震える。
「神宝?」
「先ほど話した梓弓のことだ。確かにあれらは御神体とはなっておらん。だが、すべての弓は神宝(かむだから)の扱いとなっておる。古いものについては、代々の神薙ぎや巫女がそれぞれ一張りずつ納めたといわれる。江戸時代に入って暫くすると、大祭の折りにのみ奉納されるようになったが。中でも、特に古い三張りが古神宝(こしんぽう)として御神体に準じて保管されておる」
「じいちゃん、それはどこにあるの!」
「棚にある。小さな箱が秘伝の書で、大きな箱が梓弓じゃ」
草太は振り返り、いくつかの箱を確認した。弓を収めた箱は全部で七つあった。
「じいちゃん、どれが古いやつなの?」
「左側から順に三つだ」
弓の箱は大きい。草太は一つずつ床に並べて行く。箱を開けるのはやはり祖父の仕事だ。
「開くぞ」
「うん」
目の前に現れた弓は少し大きめのもので、彼らが見知ったものではなかった。弓とともに収められていた古びた和紙には男手ではないかと推察される文字が達筆と評すべき筆致で記されていた。
「むむむ、虫食いが酷くてほとんど読めん。だが、これは清明様の弓だの」
『悪しき 淨め祓ひ(きよめはらい) 晴 月』
「草太、次の箱を開けるぞ」
「うん」
そこにあったものも見知らぬ弓。比較的小振りで、白木でできており、かなり使い込まれたものであった。先の弓と同じように、一枚の和紙も収められていた。こちらは女手であったが、やはり達筆なものであった。
『永遠の(とこしえの) 天空(あまのそら) 幸 給へ(さいわいたまへ) 目』
「これは、多分一目様のものじゃの。よし、古神宝最後の箱を開けるぞ」
「うん」
予想したものがそこにあることを期待して、封を解く。
「ああ……」
そこにあったものは小振りな弓。何かの木――多分に梓の木――の枝に弦を張っただけの素朴な作りであった。そして、その弓の造作には見覚えがあった。
「ママ、じいちゃん、これにも手紙みたいなものが一緒に入っているよ」
震える手を伸ばしたのは、母であった。
『時 超え
祈り奉げ祀らむ
幸多 れと
六芒』
「これ……、かごめだわ。かごめの字よ。間違いないわ」
「ねえちゃんなの?」
「わしにも見せてくれ!」
他の二枚の書を思えば、いくらか現代に通じる書体のその薄茶に変色した一枚を、三者がともに息を止めて取り囲む。
「六芒、……六。伝書の三番目に出てくる名じゃ! 六芒、……六芒星、………かごめ!」
老宮司が神道の知識、陰陽的な知識を辿リ寄せる。母は、かつて娘が語った記憶を思い起こす。愛しい人の、尊敬する巫女の、苦しく辛い、それでいて決して手放すことができなかった恋の断片を。信頼する仲間の、敬愛する老巫女の優しさを。
「かごめがいつも話してくれていた巫女のおばあちゃんは楓という名前で、若いころの怪我が元で片目だったそうよ」
「むむ、一目(いちもく)!」
「その楓おばあちゃんのお姉様の巫女の名が桔梗。かごめがいろいろと気にしていた人だわ」
「桔梗とくれば、晴明!」
「全部繋がった!」
手を拳に握り、謎を解き切った興奮で顔を紅潮させた祖父が叫ぶ。頬には大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「じゃあ、やっぱりこれはおねえちゃんが書いたんだ。おねえちゃん……」
草太は、目に涙を浮かべていた。
「かごめ……」
母は目を閉じ、その紙片を胸に抱きしめていた。
「もっといっぱい手紙書いてくれればいいのに」
姉の消息を伝える証拠の品との邂逅、一方でその内容の少なさに、溢れんばかりの喜びと少しばかりの怒りをもって、草太はそっと呟いた。自分の思いだけでなく、母の思いを痛いほどに感じて。
草太の目の前の母は、そのすべてを受け止めていた。とめどなくあふれる涙を流れるままにして、目の前の息子の気づかいに、短い文(ふみ)に想いを託した娘の優しさを受け止める。
「いいのよ。誰かの幸せを願えるってことは、自分も幸せだと感じているってこと。かごめはちゃんと犬夜叉くんと再会できて、幸せになったのだわ。それに、この弓がかごめの弓ならば、かごめはあちらで大切にされたということよ。何より、あの御神体が……」
伝えたかったものは、感謝。
欲しかったものは、幸せの確証。
幸、多かれと。
「ありがとう」
- 了 -
初出 2015.10.20
あとがき (click開閉)